革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

屈託のない自由が俺を殺す

初老に片足を突っ込んだ私がふと周りを見渡すと、インターネッツがあたり前田のクラッカーになって少し時間が経ったようだ。私もこのビッグウェーブに何とか追いつこうと、SNSやらブログやらに手を出し今は少しの「慣れ」というぬるま湯に浸かっているのだと思われる。現実の仕事以外に金を手にする方法がインターネッツに溢れ、注目されるのか否かは別にして世界中にイキり勃った自分のチンコをアッピールするのにも不自由が無いように見える。現実社会であまり見る機会のない「変な人たち」が「変なこと」をし、そしてそれらはまるで細胞分裂するかのように、その変な人たちは増えてゆく。我々はその「変なもの」に慣れ、インターネッツを開いた瞬間、また新しい「変なもの」は強制的に我々の中に飛び込んでくる。技術も何も必要としないこの世界では、手ぶらで、いとも簡単に「普通」を逆方向に飛び越えた人たちが、我々の目の前にしたり顔で仁王立ちする。我々が一つ一つ積み上げたものを、嘲笑いながら足蹴にし「先にここに出た方が勝ちだ」と言わんばかりにアジテーションを行う。自由すぎやしないだろうか。我々が今まで大切にしてきたものを、自らのくだらないエンターテインメントの為に食い荒らし、罵倒し、そして無邪気にその「変なもの」を恥ずかしげもなく我々の目の前に置いてゆく。ここまでは頑張って勉強しよう、ここまで練習して次に行こう、あそこに立つのはそれら全てをちゃんと出来てからだと、私が子供の頃に見ていた「プロの人たち」はそうやって世に出ていたんだ。プロというのは我々の手に届く距離に無かった。技術が高いからプロなのか、そうではない。お金を貰ってるからプロなのか、そうではない。人気があるからプロなのか、そうではない。どんな状況であれいつでもオリジナリティがあり高い品質のものを提供するのがプロなのだと私は思うのである。目の当たりにすると息を呑むようなもの。承認欲求や自己満足を私は悪いと思わないが、一生懸命やっている人たちをバカにするような表現は避けた方が良い。簡単に出来ると笑いながら品質の低いものを見せられると、私が今までやってきた事を否定されたような気分になるのである。こんな偉そうな事をつらつらと書いている私も、文章の「ぶ」の字も知らないイキり勃ったチンコだ。ここでそのイキり勃ったチンコの私は射精なんて到底不可能。ちゃんと文章を勉強している人たちだけが許される射精。私は今日も悶々とした気持ちのまま、イキり勃ったモノが静かに収まるのを待ち、射精を夢見て私はまた書くのである。

 

ギューン!!!