革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

スクラップ

ブルーハーツが歌ってた。「苦労すれば報われる そんな言葉は空っぽだ」「手にしたものをよく見てみれば 望んだものと全然違う」若い頃の私はこの歌を聴きながら、その通りだ、若者には何も無い、何も手にすることなんて無い、クソみたいな顔して笑ってんじゃねえぞサラリーマン、とギターを肩にかけホームレスのようなボロボロの格好で不貞腐れていた。

嫌な事なんてやりたくない。今日飯が食えれば良い。明日楽しい顔をして死ねるなら、今日を面白く過ごす為ならと、日雇労働をしながら毎日数千円を握りしめ、毎月の家賃支払日に絶望しながら大家につく嘘すら諦めたものであった。縋りつもの、真剣に向き合うものは音楽しかないが別にプロを目指しているわけでもない。ただただ、惜しまれながら死んでゆく英雄に憧れていただけの中途半端な若者であった。

そんな若者は30歳で音楽すら泣きながら辞めた。辞めたくないという思いと辞めなくてはいけないという変な気持ちだったのを覚えている。いよいよ何も無くなった若者は、手ぶらで「仕事」に身を置くことになる。ビジネスマナー?パソコン?営業?は?なんのはなししてんすか?ハハハ…今俺バカにされてますよね…ハハハ…すんません何も知らなくて…ハハ…ハ…自己嫌悪に押し潰されながらとりあえず今出来ることを完璧にやるしかない。地面を見つめながらふと見上げるとそこには私が嫌いなサラリーマンがニヤニヤしながら私を見下ろしていた。

若者は思ったのだ。「こんなクソ野郎がそこに立てるのは絶対に何か理由がある」と。ニヤニヤするんじゃねぇぶっ殺すぞ貴様という感情を押し殺し、若者は笑った。若者はいつもはブルーハーツを聴きながら、あなた達はそう言うけれど、あなた達は成功してるじゃないかと、才能が無い我々は何をやってもダメなのかと思っていたし諦めていた。

 

「何をやっても」

 

若者は思った。自分は何かをしているのか。やっている「つもり」で何もしていないのではないか。ちゃんとやろうと思った。自分が何も出来ていないのだから金の事を考えるのはやめようと思った。金が自分の行動にブレーキをかけているのだと思った。本を沢山読んだ。人に沢山会った。人が嫌がる仕事を率先してこなした。沢山騙された。アイツはバカだと笑われた。若者も自分はバカだと笑った。

自分には才能がないと逃げるのは簡単で、そんなことはいつでも出来る。何かをやり続けるのはかなりの痛みを伴うけども、誰に何を言われてもやり続けるのは天邪鬼なその若者にとって楽しい。信念と言えばカッコイイが本当はただの天邪鬼で、自分が正しかったのだと、あの時笑っていたお前ら今どんな気持ち(AA略)と、若者が爺さんになった時、若者があの時引き攣りながら見せた笑顔とは違う笑い方をしたいだけなのである。

未来の夢を書いた作文で、若者は小学生の時「明石家さんまさんみたいになりたい」と書いた。お笑い芸人になりたかったわけではない。人を笑わせながら自身もずっと笑っているあの姿が好きだったのだ。今までの私を助けてくれていたのは間違いなく「笑うこと」であり「しがみつくほどの価値を感じなかった金への思いを捨てた」事だ。

若者はまだ、スクラップにはなりたくないという思いを胸に秘めながら、クソみたいな奴らの前で笑っているのである。

 


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書き上げるまでは…とウンコ我慢してたので行ってきます。

 

 

屈託のない自由が俺を殺す

初老に片足を突っ込んだ私がふと周りを見渡すと、インターネッツがあたり前田のクラッカーになって少し時間が経ったようだ。私もこのビッグウェーブに何とか追いつこうと、SNSやらブログやらに手を出し今は少しの「慣れ」というぬるま湯に浸かっているのだと思われる。現実の仕事以外に金を手にする方法がインターネッツに溢れ、注目されるのか否かは別にして世界中にイキり勃った自分のチンコをアッピールするのにも不自由が無いように見える。現実社会であまり見る機会のない「変な人たち」が「変なこと」をし、そしてそれらはまるで細胞分裂するかのように、その変な人たちは増えてゆく。我々はその「変なもの」に慣れ、インターネッツを開いた瞬間、また新しい「変なもの」は強制的に我々の中に飛び込んでくる。技術も何も必要としないこの世界では、手ぶらで、いとも簡単に「普通」を逆方向に飛び越えた人たちが、我々の目の前にしたり顔で仁王立ちする。我々が一つ一つ積み上げたものを、嘲笑いながら足蹴にし「先にここに出た方が勝ちだ」と言わんばかりにアジテーションを行う。自由すぎやしないだろうか。我々が今まで大切にしてきたものを、自らのくだらないエンターテインメントの為に食い荒らし、罵倒し、そして無邪気にその「変なもの」を恥ずかしげもなく我々の目の前に置いてゆく。ここまでは頑張って勉強しよう、ここまで練習して次に行こう、あそこに立つのはそれら全てをちゃんと出来てからだと、私が子供の頃に見ていた「プロの人たち」はそうやって世に出ていたんだ。プロというのは我々の手に届く距離に無かった。技術が高いからプロなのか、そうではない。お金を貰ってるからプロなのか、そうではない。人気があるからプロなのか、そうではない。どんな状況であれいつでもオリジナリティがあり高い品質のものを提供するのがプロなのだと私は思うのである。目の当たりにすると息を呑むようなもの。承認欲求や自己満足を私は悪いと思わないが、一生懸命やっている人たちをバカにするような表現は避けた方が良い。簡単に出来ると笑いながら品質の低いものを見せられると、私が今までやってきた事を否定されたような気分になるのである。こんな偉そうな事をつらつらと書いている私も、文章の「ぶ」の字も知らないイキり勃ったチンコだ。ここでそのイキり勃ったチンコの私は射精なんて到底不可能。ちゃんと文章を勉強している人たちだけが許される射精。私は今日も悶々とした気持ちのまま、イキり勃ったモノが静かに収まるのを待ち、射精を夢見て私はまた書くのである。

 

ギューン!!!

 

 

好きな人の携帯電話を覗くこと

こんにちは。わべ太郎です。今回は好きな人の携帯電話を覗く行為についてお話したいと思います。人は何故好きな人の携帯電話を覗くのか。これは永遠のテーマとなるわけですが、IT革命後のこの世の中、セキュリティやらプライバシーやらと携帯電話にこれでもかと侵入を防ぐための所謂ロックが備えられておるわけでございますが、こんなものは好きな人の「え?やましい事が無いのなら何故にこんな厳重なロック掛けてんの?は?」というロック解除の呪文が唱えられればすぐさま解けるようになっている次第であります。IT革命・認証・指紋などは全く意味をなしません。「正の威嚇」に我々は膝を折るしかないのです。しかしながらどうでしょう。逆に?なんで?なんで見せないといけないの?え?悪いことなんてしてませんけど?どこまでがセーフで?どこまでがアウトなんすか?は?男の我々は?何にもしてなくても?あなたの?その疑いの眼差しと?その強い語尾に?震えまくって?今何見てんの?どこ見てんの?え?ちょっと待って?説明文まだ考えてないんですけど?どこ見てんの?どれ?あー!それね!!!それはさー!!!○○がさー!知ってるでしょ???あいつさー!!!え???口が尖ってる???こういう話してる時私の口が???尖ってる???そんなことないですけど???その店は別にやましい事があるわけじゃなくてあそこの取締役とたまたま飯食いに行 え???聞いてる?次の話行ってんの?どれ?どの部分?ちょっと思い出すから待ってえ??と、まぁ、男なんてものは何も無くても気が動転しまくって声と手足が震えそして尻の穴がパカパカするもんな訳ですよ女性陣。分かりますか?あまり虐めないでもらえませんかね。本当。正味の話ですね、相手の携帯電話なんて見る意味、を私なりに考えるとですね、相手と別れたいなら携帯電話を見てその「粗を探す」という行為はやっても良いと思うわけですよ。別れたい訳ですから。でも「好き♥だから証明して♥見せて♥」なんてものは我々何もやってない症候群の気の小さな男達にはですね、ハートがもたないわけですよ。何もやってないのにドキドキするんですから。やましい事があるからドキドキしてると思ってんでしょ?!?!違うから!!!あなた達のその真摯な眼差しに加え冷静な口調に、我々何もやってない症候群の我々は噛まずに納得する説明文をこちらはすぐに用意しないといけないわけですから!ききき緊張するんですから。どこからがアウトなのか、その線引きが曖昧そして主観に溢れたこのやり取りは不毛でしかないと私は思うわけですよ。ね?相手の携帯電話には不幸しか入ってないですよ。本当に。その不幸とは、私が思うセーフと貴方が思うセーフの線引きの位置が違う、とそれだけです。些細な事で喧嘩になるなら見ない方が良い。隠しているのではない、相手に踏み入りすぎるな、というのが私の思っていることであります。

 

長々と書きましたが、私が言いたい事は一つ、

 

「俺の携帯電話は見るな」

 

とそれだけです。守ってください。

では。

 

 

「なれる」のか「なれない」のかなんて「今」は関係ない

先日、歌手志望の子と酒を飲みながら音楽の話をした。細かい部分の音楽への感じ方が似てるなと思ったので、音や歌に「心を込める」や「思い」などの所謂「わべオカルト」の話をしてみたのである。私は感情や思いは出すその人間のその音や歌に乗る、という宗教法人も真っ青な考え方を持っている。相手の感想は「めっちゃわかる」「オッサン見た目ゴリラなのに繊細なんだな」という失礼千万な有難いお言葉を頂いた。シバくぞ。あ、分かってくれる人がいるんだな、なんて嬉しく思ったのと同時に、この人の歌の良さは私が音楽から拾おうとする「その何か」がちゃんと出ていて私はそれをちゃんと感じているのだろうと思った。音楽事務所やレーベルといった所謂「売れ方」について色々と話している中で、その先にある「なれる」のか「なれない」のか、は「今は」関係ないよねという話も意見が合致した。音楽だろうが仕事だろうが絵だろうが、我々が「やる」のは「なる」ためにやるのであり、そこに「なれる」担保など無い。なるために、そこに近づくために、技術を、知識を、表現を日々鍛えるのである。そこで軸となるのはやはり「思い」であると。我々は感情むき出しの音や歌や絵や写真に感動するのではないかなどと常々思っているのだ。上手いとか下手というのは軸の周りをビリビリと電気のようにまとわりつく「見え方」で「なる」ためにその見え方や技術を磨くのだ。その子には「プロになれなかった私」と「プロになっていった人達」の違いについても話した。「もしかしたらなれた」のか「なれなかった」のかは関係ない。私は「なろうとしていなかった」しプロになった人達は「プロになろうとする動き方をしていた」のである。私は今ほぼ仕事だけに集中して生活をしている。なろうとしているのである。なれるのかなれないのかは関係ない。私は「なった」人達に「なりたいんだ」と教えを乞い「なる」ための動き方をしている。一日22時間働けと言われればやる。しかしなれる担保などない。低いハードルを飛び越えて「なった」と叫ぶ輩の相手をしている暇はない。思いは相手に伝わるんだ。声や仕草や文章や対応にその思いは乗る。私の思いに共感し協力してくれている人達の為にも私がブレてはならぬ。

 

話違うけど東京の部屋の床が白くて陰毛落ちてると気になってすぐ掃除機かけちゃうのめんどくさいからパイパンにしようと思ってるんですけどオッサンのパイパンは可愛いですか?キモイですか?興味ないですか?そうですか。

 

 

そしてあの日から私が見る世界はキラキラと輝きだした

どうですか皆さん、幸せですか?最高ですか?良かったです。私も幸せです。何が幸せなのか、と問われても具体例は何もありませんが「不幸ではないこと」が幸せなんだと自分に言い聞かせながら日々イバラの道を痛みに耐えながら歩いているところであります。

私が生きているこの世界はこれまでも、今も、これからもキラキラと輝いている。思い起こせば14歳の時、学校の授業で使用する竹刀をギターに見立ててブルーハーツを聴きながらエアギターみたいに掻き鳴らしているところを親父に見られ、不憫に思った親父は私に週刊誌の裏表紙に広告を出してるような安エレキを買い与えた。届いたその日から、ギターケースを開封したその時から私の世界はキラキラと輝きだした。毎日ギターを練習して毎日磨いて毎日大事に抱いて寝た。

私には自慢できるような学歴も大きな会社に勤めた実績も何も無い。好きに生きてきた。10代の頃にはすでに「頭の良い仕事は頭の良い人達がすれば良い」と、70歳くらいになっても自分は工事現場にいるんだと諦めそして少しの不安が私の心の片隅にあった。しかしながら悲観していたわけではない。この頃も、いつも目の届く所にギターがあった。上手いとか下手とかそんなものはどうでもいい。私はギターが大好きだったんだ。

オッサンに片足を突っ込んだ30代の時にふと周りを見渡した。皆必死に働いていた。もちろん私も必死に働いた。エリート達とも話をしたり飯を食ったりした。その時あれ?と思った。私と彼らに圧倒的な差があるのかと言うとそんなものは無かった。当たり前のように愚痴を言い当たり前のように金が無くそして当たり前のように仕事と生活に追われていた。

厳密に言うと差はある。それは大きな会社での仕事のやり方やスピード「当たり前に出来る仕事の精度の高さ」である。我々のような小さな会社には太刀打ち出来ない。ここにやり甲斐やモチベーションを見いだせる人達はその会社や仕事を楽しんでいるが、私が出会う人達は金やステイタスや立場を重視し、そしてあの頃思い描いていたものと違うと嘆いた。

40代になった私は未だ時代に合わないブラック能、頭のおかしな男として仕事をしている。当たり前だが我々のような小さな会社は止まると壊れる。大変ではあるが苦痛ではない。私は今まで好きにやってきた分を取り戻さないといけない。追いつかないといけない。とはいえ時間は皆平等に過ぎていくのだ。時間を取り戻すには皆が休んでいる時、皆が寝ている時しかない。絶望なんてしない。そこに大好きなギターがある。

この先私がどうなるのかなんて分からない。今は上手くいっていても、来年、3年後、10年後に自分の意思とは関係なく全てが壊れるかもしれない。しかし私は怖くはない。私の強みは金にもステイタスにも全くと言って良いほど執着がない事である。元々私には何も無いんだ。どうでもいい。誰かに必要とされてればその何かはあるだろうし誰にも必要とされないのならその時その何かは無い。ただただそれだけである。あの頃、老人になっても工事現場にいるんだろうなと想像していたその姿に私はなるだけだ。

私が見る世界はこれからもキラキラと輝いている。1本だけ、私は1本だけGibsonのギターを持ってるんだ。何もかもが壊れても、私はこのGibsonだけ持ってフラフラとどこかに行くのだ。金も服もいらない。その辺の道端で毎日ギターを弾きながら毎日Gibsonを抱いて寝るのだ。14歳の時に買ってもらった安いギターが、当時死んでも買えないと思っていたあのGibsonに変わっている。最高である。

私の事はどうでもいい。私の周りが豊かになるように、私はこれからも頑張って仕事をするとそれだけである。私はあの時から何も変わっていない。何も問題ない。

 

というような事を抜歯した奥歯のとこにスポッと入った米粒を1時間半ほどベロで必死にとりながら考えていました。取れないんですけど?チョー怖いんですけど?どうすんの?これ?大丈夫?死ぬの?

 

俺死ぬの?

 

 

私は艶やかなコスプレイヤー

こんにちは。コスプレイヤーわべの部屋へようこそ(ニッコリ) アホな私も「主語の大きさ」なるインターネッツのルールを覚え、はてなでのIDコールで呼び出し喰らうことも少なくなって来ましたが久しぶりに呼ばれたのでご紹介しながらお話してみましょうか。主張という程の話ではないので私の考えなどをつらつらと。

 

snack.elve.club

 

最初にお会いした時から可愛い人でしたが最近また女に磨きをかけておられるエルベ様です。未だに「友達だろ?」と聞くと「違う」と返ってきます。あと何年かかるのでしょうか?この記事の中では格好をどう捉えるのか、的なお話が書かれております。私が小綺麗にしてるのは「格好をつけたい」は勿論含まれてますがもう一つ理由があります。

その理由とは「相手に警戒させる」というもの。普通、営業マンなら親しみやすく警戒を解く手法を選ぶものですが、私は真逆、裏の裏は裏である的なよく分からない深読みをして自爆、卵が先か鶏が先か的な話と胡散臭い見た目を融合させて相手を煙に巻くなどという戦法は最終的に詐欺師がよく使用する手法であるがまぁ似たようなものだ。

冗談?はさておき、何故相手を警戒させるのか、であるが、私の会社などは誰も知らない看板の大きさなど無いに等しい会社だ。大きな会社に勤務されておられる猛者達には分からないだろうが、会社の規模やネームバリューというものは商談にいちいち影響する。例えば1万円の物を売る時、相手に「コイツはこれを売りたいんだな」と思わせると私は負けるのだ。だから私は見た目だけでも最初からバッキバキに武装する。第一印象で完全武装していれば、相手は少し「引く」のである。

話始めればそこからは私の実力しかもう武器はない。知識も技術も無ければ、ただの格好つけたバカなオッサンとして相手にされなくなるだけである。しかしながらそこでちゃんと話が出来れば、会社の規模など関係なく「ウチの商品が欲しいのか否か」だけ集中して話が出来るし変な値切りも発生しない。私が強気の金額を提示してもそこには「相手が欲しいのか欲しくないのか」だけで、後はその金額でOKなら連絡して下さいと商談は終わる。

結局私は「見た目だけで変な隙を作りたくない」という理由で武装してることになる。靴もスーツもシャツも。「隙」を作るのは話し始めてちゃんと同じ高さで話が出来ているなと確認してからでよい。誤解のないように記しておくが、そんなに良い物ばかりを身に付けている訳では無い。クリーニング然り、靴磨き然り、いつも綺麗にしているだけ、である。ワイシャツのお気に入りはユニクロ。あれはめちゃ良い。

格好は多分人格を変える。仕事する時はバッキバキのスーツを着るしバンドする時はボッロボロの革ジャンにボッロボロのジーパンにボッロボロのブーツ。家にいる時はパーカーにジーパン。そのシチュエーションと格好で我々は顔も話し方も仕草も変わっているのではないか、と私は思っている。

 

女性と食事をしている時は、鼻の下がびんよよよーんと伸びきって気持ち悪いオッサンと化しているのは言うまでもない。

 

これを書きながらエルベ氏が友達になってくれない理由が今判明した。

 

 

私は男の子ですから

こんな年になっても未だにカッコイイものを見ては私もそこに行きたい、私もそうなりたいと思うのですよ。振り返ってみましょうか。

幼稚園の頃は覚えてないなぁ。小学校に上がるとやはり仮面ライダーや戦隊モノですよね。私の時代は仮面ライダーV3だったかな?あとはキカイダーとかサンバルカンとか。小学校3年生くらいの時はキン肉マンが流行ったのでずっとキン肉マンの絵を描いてました。ウォーズマンが好きだった気がする。

高学年になって音楽に興味を示す。その頃は友達のお兄ちゃんからワケも分からず洋楽を借りて聴いていました。ジェネシスとかスティービーワンダーとか。中学に上がってブルーハーツを友達から借りてぶっ飛んでギターを始めた。中3でX JAPANのHIDEでメタルに目覚める。

そこからずっとバンド関係の「カッコイイもの」をギター・ベース・ドラムに関係なく、探して見つけては俺も!俺もカッコ良くなりたい!と思ってました。

20代の中頃で仕事の基本的な考え方みたいなことを当時の社長から教わって本格的に仕事にのめり込んだのは30歳になってから。今で言う詐欺師の集まりみたいなクソみたいなブラック企業で仕事をしていたんですがそこでも所謂「カッコイイサラリーマン」を見つけては「俺も!俺もカッコイイサラリーマンになりたい!」と思っては真似してましたよね。

今振り返るとその時「カッコイイ!」と思って真似してた事が今の私を作っているわけで、今の私がカッコイイがどうかは別にして常にカッコ良くなりたいと思ってるわけです。それは見た目とか容姿の話ではなくて、身に付けているものとか仕草であったり、考え方であったり人との対応の仕方や切り返しであったり。

私はまだ、こんな歳になっても私がカッコイイと思った人の真似をしてるのですよ。私がカッコイイと思ったものを集めてるんです。世の中にはオッサンでもオジイサンでもカッコイイ人は山ほどいるんですよ。女性にモテるとかそんな話ではないです。別に誰かに分かって欲しい訳では無いしね。男臭いのが好きだし。そんなの流行ってないし。

仕事が面白いとかどうのこうのって話もそうだけど、上に行けば行くほどカッコイイ人がそこにはいて、今はギリギリ私が思う男臭いカッコイイオッサンやジイサンが大きな会社に残ってるんです。私はその人達に会いたい。会って話がしたい。どんな所作なのか、普段何してるのか、今の私の年齢の時に何を考えてたのかを聞きたい。

私には時間が無いのですよ。同年代に私がカッコイイと思う人が少ないんです。私がカッコイイと思うそんな人達が定年で居なくなる前に会いに行かなくては。そうするにはもっと勉強しないといけないし仕事の実績を上げないと行けないし人格を磨かないといけない。暇を見つけては文句ばかり吐くダサいオッサンと酒を飲む時間は私には無いのです。

 

という事をこんな時間にカラムーチョ食いながら書いてます。プロのデブですから。