革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

心から何かを楽しむ感情の欠落

私はいつも息子に対して心の中で申し訳ないという思いを抱いている。直近でその思いを抱いたのは2ヶ月ほど前に行ったディズニーランドで、である。いつも仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事休み仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事ライブ仕事仕事仕事仕事仕事休み仕事仕事仕事仕事仕事仕事みたいな生活をしているので、年に数回、遠方に連れて行く約束を家族にしている。その中の約束で企画したディズニーランドでの出来事、とは言っても何かがそこで起きたわけでは無い。ショーを観ながらの昼食で、やたら身体のデカい外国人とウッディーが踊って歌っているのを観ているその途中、観客みんなも立ち上がって一緒に踊ろう!と見知らぬ家族と手を繋ぎ、そして一緒に踊るそのイベントを我々家族も参加した。対面を見ると私ぐらいの年齢のお父さんがそれはもう楽しそうな顔で、それはもう大きな動きで、それはもう大きな笑い声で子供たちと笑いながら踊っていた。さて、私はどうだろうか。周りに合わせた振り付けで踊りはするものの、あれほど楽しそうには踊れない。照れもあるのだろうが、私にはあのお父さんほど楽しそうに踊れないし、心底このディズニーランドを楽しんでいるのかと言われると疑問符が付くのである。その時私は子供たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ。あのお父さんのように、あのお父さん自身のように楽しんでいれば、ウチの子供たちももっとディズニーランドを楽しめるだろうにと。私は子供たちに目を向け、子供たち「が」楽しそうにしてる顔を見ると私も楽しい気分になるが、私には「その場を楽しむ感情」が欠落している。遊園地の他ではカラオケなども苦手となる。歌を歌えと言われれば歌う事は出来るが、楽しめていない自分の居場所をいつも探しているのである。その空気を出さないように取り繕って騒ぐわけだが、その電池は何時間も続かない。変な空気を出してしまうと楽しんでいる人達に申し訳ないと、私はいつもカラオケを辞退するというわけだ。ふと思い返すと、若い頃はよくカラオケに行ってたよなと考えてみると、その頃私は酒を飲んでいた。酒は私のその変な感情の線をボンヤリと滲ませる効力を持っているのだなと再確認した。誰かと食事をしたり何人かで飲んだりするのは私も楽しい。その感情がある条件下では全くといっていいほど顔を出さないのだ。色んな場面で色んな空気の中、その場を最大限楽しめる人が世の中には沢山いるが、私はその人達が本当に羨ましい。所謂パリピなんて人達はその最たる人達なんだろう。私はそのパリピ達を街で見かけるとジッと観察してしまう。なぜそんなに楽しそうなんだ。どうやったらそんなに楽しめるのだ。私はその誰かの楽しそうな姿をお手本に、「パパ今日楽しそう」と子供たちに感じてもらうために、今日も誰かの楽しそうな顔をジッと眺めているのである。