革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

「なれる」のか「なれない」のかなんて「今」は関係ない

先日、歌手志望の子と酒を飲みながら音楽の話をした。細かい部分の音楽への感じ方が似てるなと思ったので、音や歌に「心を込める」や「思い」などの所謂「わべオカルト」の話をしてみたのである。私は感情や思いは出すその人間のその音や歌に乗る、という宗教法人も真っ青な考え方を持っている。相手の感想は「めっちゃわかる」「オッサン見た目ゴリラなのに繊細なんだな」という失礼千万な有難いお言葉を頂いた。シバくぞ。あ、分かってくれる人がいるんだな、なんて嬉しく思ったのと同時に、この人の歌の良さは私が音楽から拾おうとする「その何か」がちゃんと出ていて私はそれをちゃんと感じているのだろうと思った。音楽事務所やレーベルといった所謂「売れ方」について色々と話している中で、その先にある「なれる」のか「なれない」のか、は「今は」関係ないよねという話も意見が合致した。音楽だろうが仕事だろうが絵だろうが、我々が「やる」のは「なる」ためにやるのであり、そこに「なれる」担保など無い。なるために、そこに近づくために、技術を、知識を、表現を日々鍛えるのである。そこで軸となるのはやはり「思い」であると。我々は感情むき出しの音や歌や絵や写真に感動するのではないかなどと常々思っているのだ。上手いとか下手というのは軸の周りをビリビリと電気のようにまとわりつく「見え方」で「なる」ためにその見え方や技術を磨くのだ。その子には「プロになれなかった私」と「プロになっていった人達」の違いについても話した。「もしかしたらなれた」のか「なれなかった」のかは関係ない。私は「なろうとしていなかった」しプロになった人達は「プロになろうとする動き方をしていた」のである。私は今ほぼ仕事だけに集中して生活をしている。なろうとしているのである。なれるのかなれないのかは関係ない。私は「なった」人達に「なりたいんだ」と教えを乞い「なる」ための動き方をしている。一日22時間働けと言われればやる。しかしなれる担保などない。低いハードルを飛び越えて「なった」と叫ぶ輩の相手をしている暇はない。思いは相手に伝わるんだ。声や仕草や文章や対応にその思いは乗る。私の思いに共感し協力してくれている人達の為にも私がブレてはならぬ。

 

話違うけど東京の部屋の床が白くて陰毛落ちてると気になってすぐ掃除機かけちゃうのめんどくさいからパイパンにしようと思ってるんですけどオッサンのパイパンは可愛いですか?キモイですか?興味ないですか?そうですか。

 

 

そしてあの日から私が見る世界はキラキラと輝きだした

どうですか皆さん、幸せですか?最高ですか?良かったです。私も幸せです。何が幸せなのか、と問われても具体例は何もありませんが「不幸ではないこと」が幸せなんだと自分に言い聞かせながら日々イバラの道を痛みに耐えながら歩いているところであります。

私が生きているこの世界はこれまでも、今も、これからもキラキラと輝いている。思い起こせば14歳の時、学校の授業で使用する竹刀をギターに見立ててブルーハーツを聴きながらエアギターみたいに掻き鳴らしているところを親父に見られ、不憫に思った親父は私に週刊誌の裏表紙に広告を出してるような安エレキを買い与えた。届いたその日から、ギターケースを開封したその時から私の世界はキラキラと輝きだした。毎日ギターを練習して毎日磨いて毎日大事に抱いて寝た。

私には自慢できるような学歴も大きな会社に勤めた実績も何も無い。好きに生きてきた。10代の頃にはすでに「頭の良い仕事は頭の良い人達がすれば良い」と、70歳くらいになっても自分は工事現場にいるんだと諦めそして少しの不安が私の心の片隅にあった。しかしながら悲観していたわけではない。この頃も、いつも目の届く所にギターがあった。上手いとか下手とかそんなものはどうでもいい。私はギターが大好きだったんだ。

オッサンに片足を突っ込んだ30代の時にふと周りを見渡した。皆必死に働いていた。もちろん私も必死に働いた。エリート達とも話をしたり飯を食ったりした。その時あれ?と思った。私と彼らに圧倒的な差があるのかと言うとそんなものは無かった。当たり前のように愚痴を言い当たり前のように金が無くそして当たり前のように仕事と生活に追われていた。

厳密に言うと差はある。それは大きな会社での仕事のやり方やスピード「当たり前に出来る仕事の精度の高さ」である。我々のような小さな会社には太刀打ち出来ない。ここにやり甲斐やモチベーションを見いだせる人達はその会社や仕事を楽しんでいるが、私が出会う人達は金やステイタスや立場を重視し、そしてあの頃思い描いていたものと違うと嘆いた。

40代になった私は未だ時代に合わないブラック能、頭のおかしな男として仕事をしている。当たり前だが我々のような小さな会社は止まると壊れる。大変ではあるが苦痛ではない。私は今まで好きにやってきた分を取り戻さないといけない。追いつかないといけない。とはいえ時間は皆平等に過ぎていくのだ。時間を取り戻すには皆が休んでいる時、皆が寝ている時しかない。絶望なんてしない。そこに大好きなギターがある。

この先私がどうなるのかなんて分からない。今は上手くいっていても、来年、3年後、10年後に自分の意思とは関係なく全てが壊れるかもしれない。しかし私は怖くはない。私の強みは金にもステイタスにも全くと言って良いほど執着がない事である。元々私には何も無いんだ。どうでもいい。誰かに必要とされてればその何かはあるだろうし誰にも必要とされないのならその時その何かは無い。ただただそれだけである。あの頃、老人になっても工事現場にいるんだろうなと想像していたその姿に私はなるだけだ。

私が見る世界はこれからもキラキラと輝いている。1本だけ、私は1本だけGibsonのギターを持ってるんだ。何もかもが壊れても、私はこのGibsonだけ持ってフラフラとどこかに行くのだ。金も服もいらない。その辺の道端で毎日ギターを弾きながら毎日Gibsonを抱いて寝るのだ。14歳の時に買ってもらった安いギターが、当時死んでも買えないと思っていたあのGibsonに変わっている。最高である。

私の事はどうでもいい。私の周りが豊かになるように、私はこれからも頑張って仕事をするとそれだけである。私はあの時から何も変わっていない。何も問題ない。

 

というような事を抜歯した奥歯のとこにスポッと入った米粒を1時間半ほどベロで必死にとりながら考えていました。取れないんですけど?チョー怖いんですけど?どうすんの?これ?大丈夫?死ぬの?

 

俺死ぬの?

 

 

私は艶やかなコスプレイヤー

こんにちは。コスプレイヤーわべの部屋へようこそ(ニッコリ) アホな私も「主語の大きさ」なるインターネッツのルールを覚え、はてなでのIDコールで呼び出し喰らうことも少なくなって来ましたが久しぶりに呼ばれたのでご紹介しながらお話してみましょうか。主張という程の話ではないので私の考えなどをつらつらと。

 

snack.elve.club

 

最初にお会いした時から可愛い人でしたが最近また女に磨きをかけておられるエルベ様です。未だに「友達だろ?」と聞くと「違う」と返ってきます。あと何年かかるのでしょうか?この記事の中では格好をどう捉えるのか、的なお話が書かれております。私が小綺麗にしてるのは「格好をつけたい」は勿論含まれてますがもう一つ理由があります。

その理由とは「相手に警戒させる」というもの。普通、営業マンなら親しみやすく警戒を解く手法を選ぶものですが、私は真逆、裏の裏は裏である的なよく分からない深読みをして自爆、卵が先か鶏が先か的な話と胡散臭い見た目を融合させて相手を煙に巻くなどという戦法は最終的に詐欺師がよく使用する手法であるがまぁ似たようなものだ。

冗談?はさておき、何故相手を警戒させるのか、であるが、私の会社などは誰も知らない看板の大きさなど無いに等しい会社だ。大きな会社に勤務されておられる猛者達には分からないだろうが、会社の規模やネームバリューというものは商談にいちいち影響する。例えば1万円の物を売る時、相手に「コイツはこれを売りたいんだな」と思わせると私は負けるのだ。だから私は見た目だけでも最初からバッキバキに武装する。第一印象で完全武装していれば、相手は少し「引く」のである。

話始めればそこからは私の実力しかもう武器はない。知識も技術も無ければ、ただの格好つけたバカなオッサンとして相手にされなくなるだけである。しかしながらそこでちゃんと話が出来れば、会社の規模など関係なく「ウチの商品が欲しいのか否か」だけ集中して話が出来るし変な値切りも発生しない。私が強気の金額を提示してもそこには「相手が欲しいのか欲しくないのか」だけで、後はその金額でOKなら連絡して下さいと商談は終わる。

結局私は「見た目だけで変な隙を作りたくない」という理由で武装してることになる。靴もスーツもシャツも。「隙」を作るのは話し始めてちゃんと同じ高さで話が出来ているなと確認してからでよい。誤解のないように記しておくが、そんなに良い物ばかりを身に付けている訳では無い。クリーニング然り、靴磨き然り、いつも綺麗にしているだけ、である。ワイシャツのお気に入りはユニクロ。あれはめちゃ良い。

格好は多分人格を変える。仕事する時はバッキバキのスーツを着るしバンドする時はボッロボロの革ジャンにボッロボロのジーパンにボッロボロのブーツ。家にいる時はパーカーにジーパン。そのシチュエーションと格好で我々は顔も話し方も仕草も変わっているのではないか、と私は思っている。

 

女性と食事をしている時は、鼻の下がびんよよよーんと伸びきって気持ち悪いオッサンと化しているのは言うまでもない。

 

これを書きながらエルベ氏が友達になってくれない理由が今判明した。

 

 

私は男の子ですから

こんな年になっても未だにカッコイイものを見ては私もそこに行きたい、私もそうなりたいと思うのですよ。振り返ってみましょうか。

幼稚園の頃は覚えてないなぁ。小学校に上がるとやはり仮面ライダーや戦隊モノですよね。私の時代は仮面ライダーV3だったかな?あとはキカイダーとかサンバルカンとか。小学校3年生くらいの時はキン肉マンが流行ったのでずっとキン肉マンの絵を描いてました。ウォーズマンが好きだった気がする。

高学年になって音楽に興味を示す。その頃は友達のお兄ちゃんからワケも分からず洋楽を借りて聴いていました。ジェネシスとかスティービーワンダーとか。中学に上がってブルーハーツを友達から借りてぶっ飛んでギターを始めた。中3でX JAPANのHIDEでメタルに目覚める。

そこからずっとバンド関係の「カッコイイもの」をギター・ベース・ドラムに関係なく、探して見つけては俺も!俺もカッコ良くなりたい!と思ってました。

20代の中頃で仕事の基本的な考え方みたいなことを当時の社長から教わって本格的に仕事にのめり込んだのは30歳になってから。今で言う詐欺師の集まりみたいなクソみたいなブラック企業で仕事をしていたんですがそこでも所謂「カッコイイサラリーマン」を見つけては「俺も!俺もカッコイイサラリーマンになりたい!」と思っては真似してましたよね。

今振り返るとその時「カッコイイ!」と思って真似してた事が今の私を作っているわけで、今の私がカッコイイがどうかは別にして常にカッコ良くなりたいと思ってるわけです。それは見た目とか容姿の話ではなくて、身に付けているものとか仕草であったり、考え方であったり人との対応の仕方や切り返しであったり。

私はまだ、こんな歳になっても私がカッコイイと思った人の真似をしてるのですよ。私がカッコイイと思ったものを集めてるんです。世の中にはオッサンでもオジイサンでもカッコイイ人は山ほどいるんですよ。女性にモテるとかそんな話ではないです。別に誰かに分かって欲しい訳では無いしね。男臭いのが好きだし。そんなの流行ってないし。

仕事が面白いとかどうのこうのって話もそうだけど、上に行けば行くほどカッコイイ人がそこにはいて、今はギリギリ私が思う男臭いカッコイイオッサンやジイサンが大きな会社に残ってるんです。私はその人達に会いたい。会って話がしたい。どんな所作なのか、普段何してるのか、今の私の年齢の時に何を考えてたのかを聞きたい。

私には時間が無いのですよ。同年代に私がカッコイイと思う人が少ないんです。私がカッコイイと思うそんな人達が定年で居なくなる前に会いに行かなくては。そうするにはもっと勉強しないといけないし仕事の実績を上げないと行けないし人格を磨かないといけない。暇を見つけては文句ばかり吐くダサいオッサンと酒を飲む時間は私には無いのです。

 

という事をこんな時間にカラムーチョ食いながら書いてます。プロのデブですから。

 

 

そういうところが不愉快なんだ

死んでくれよ。と、さすがにそこまでは思わない。死ななくても良い。しかしながら世の中色んな奴がいる。顔見知りの奴から知らない奴まで色んな人間が我先にと自身の欲望を隠しもせずにあらゆる屍の上で「得」を貪り食っているのだ。

自分の利益のためなら誰かの不利益など気にしない、息をするように嘘を吐き、他人の痛みには無頓着なのに自分のかすり傷は大声で痛いと叫ぶ。私はそういう自分勝手な人間をいつも頭の中の「嫌いフォルダ」に放り込む。

身近な人間からニュースなどで報道される頭のおかしな人間全て。人の怒りの感情に油を注ぎ、負の感情はその他大勢に伝染する。私はこの手の迷惑を撒き散らす人間にどうして欲しいのだろうか。

別に死んで欲しいわけではない。謝って欲しいわけではない。泣いて欲しいわけではない。せめてやって貰えないだろうかと思うのは一つだけ「悪びれて」欲しい。自身が恥ずかしい事をした、悪い事をした、迷惑をかけたとちゃんとそれらを自分で気付き「悪びれて欲しい」のである。

我々は日本人だ。虚勢を張って外見ばかりをよく見せるより、内面の丁寧さであったり豊かさを心の中で静かに育てる、控えめに誰かを引き立たせるのが美しさではないのか。最近は醜い奴らが多すぎる。その醜い人間たちは悪びれない。当たり前である。自身が恥ずかしい事をしていると認識していない。

醜い連中が勝っているその場面など見たくない。プレゼンテーションが上手いだけの奴らばかりが勝つのか?よく分からない主張を大声で叫ぶ輩が何かを掴むのか?そうではないと私は思う。恥ずかしいことを恥ずかしいと思わないその心が強さだと勘違いしている輩を見ると、腐った根性の腐臭と醜く歪んだ笑みに吐き気がする。

罪を憎んで人を憎まず、私がいつも憎んでいるのはこの言葉の中の罪でも人でもない。その手の人間から放出し透けて見える悪びれない態度や自分勝手な思考が私を苛立たせるのである。胃の上に据わったその苛立ちを、私は何とか身体の外から出ないように踏み潰す。踏み潰すそのブヨブヨとした苛立ちは心の中で弾け飛び、心の染みとなっていつまでも残るのだ。

 

さて諸君、私が何故このような鬱蒼とした気味の悪い文章をタラタラと書いてるのかを説明しようか。今朝私は口を開けてバカみたいな顔をしながらイヤホンでSOUL'd OUTを聴きながら吊革に捕まり、その日のヤル気を絞り出そうと奮起していたわけだが、突然頭に鈍い痛みと衝撃、そして目の前に火花がババっと広がった。

一瞬の出来事で何事かと顔を上げると、そこにはドデカい身長をした外国人のサッと引く手の残像が見え、同時にニヤリと笑みを零す醜い顔面を私は捉えた。多分だが吊革に捕まっていたそのバカデカい手が滑って私の頭に直撃したのだろう。フザケルナ!オイ!私の頭に血が上り、体温が上昇するのを感じたその時、私はすぐこの場を去ろうと決めた。その理由は、頭に衝撃が走ったその瞬間、驚きと痛みで私の口は「ギャイン!!」という擬音を発した。

 

ギャイン!

 

言うだろうか。いや、言わない。けど、言った。確かに私は言ったのだ。怒りと悲しみが混在する私の心は「ギャイン」と言ってしまった恥ずかしさに負け、足早にその場を離れる事を選択したのだ。せめてoh Sorryぐらい言えよあの外国人め。そういうとこだぞ。もっと悪びれろ!許さねえからな!

 

ギャイン!!!

 

 

私はただのハウスマヌカン

どこ行ったんでしょうか。ハウスマヌカン。知ってますかあなた達。知らないでしょう?ハウスマヌカン。私が若い頃(というか子供の頃)は居たんですよ。洋服屋さんがブティックと呼ばれていたその頃、母親がたまに入るブティックにそのハウスマヌカンはいた。先程からハウスマヌカンを何度も連呼しているが、ハウスマヌカンは洋菓子でも妖怪でもない。ただの販売員である。しかしながらただの販売員と言っても、私のハウスマヌカンに対するイメージは妖怪のそれと変わらない。ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせばしだれ柳に早変わり〜と歌いながら伸びる南京玉すだれのようなピンと張った前髪、幼心にジャミラか、はたまたアメフトかと母親のお尻に隠れながら観察したあの肩パット、蕎麦?え?蕎麦なの?的な髪型のソバージュ、挙げればキリがないのでこの辺でやめておくが、私が住んでいた大阪の外れのその町にも確かにブティックはあったしハウスマヌカンはいたのだ。と、ここまでハウスマヌカンの事をヌラヌラと書いてしまったが、別にハウスマヌカン自体をどうのという話がしたい訳ではない。何を隠そう私はハウスマヌカンであるのだ、という話をしていきたい。私は仕事でもプライベートでも、男女の関係であっても、ハウスマヌカンのような立ち位置、距離感を心がけている。どういう事かと言うと、こちらからはアプローチをしないが、相手が「わべさん」と呼べばすぐに対応出来る距離に私はいる、という事である。近すぎても鬱陶しい、離れすぎると呼んでも来ない、そんな距離ではなく、誰かの邪魔をしないように作業をしながら「すみません」と声が掛かればすぐに「いらっしゃいませ」と返せる距離を、私は誰に対しても、いつも測っているのである。それが不特定多数の誰かの仕事の依頼なのか、相談なのか、お願いなのか、SOSなのか、別に何でもいい。それが現実社会でもインターネットの中でも良い。私がこの人好きだな、と思えば付かず離れずの一定の距離を測りながら、どこに立てば私が邪魔にならないかな?と考えながら存在するのである。理由など特にない。私に出来ることがあるなら何かをしてあげたいけど、対価が欲しい訳では無い。なりふり構わず何かを求める執着や自分勝手に欲を満たす誰かのその醜い顔面に戦きながら、私が考える還元や人との繋がり、そこに私は私の存在意義を見出そうとしているのかもしれないなと漠然と考えることはある。私はどこか遠い国で困っている誰かの事や、この国の政治やシステムに興味を持つほど頭が良い訳では無いし、私がどうにか出来るような場所に立っているわけでもない。近くにいる人でも、私から「助けたい」なんて分をわきまえない事も考えない。しかしながら「あ、わべさん、私今困ってんだよねー」と声を掛けて貰えれば私に出来ることはやる。それが還元であり今までやった悪事の埋め合わせであり償いだと思っているのだ。もちろん帳消しになるなんて事は思っていないが、悪い事をしなくても生きていける大人になった今、片手もしくは両手が空いてるその時に誰かの何かを手伝いたい。それだけである。雲をつかむような大きな正義を大声で叫びながら自身に近い周囲に不愉快や迷惑を撒き散らす、私はそんな年の取り方をしたくない。

 

そんな事を思いながら、今日も私は前髪をピンコ立ちにさせてソバージュをあて、巨大な肩パットに真っ赤なルージュを引いてあなたの後ろに立っているのです。

 

あなたの後ろに立っている。

 

あなたの後ろに…

 

 

わたしがオジサンになっても

さて、今回は世の中でどこに行っても無視され虐げられ忌み嫌われるオジサン・オッサンについて書いてみたい。我々男は必ずこの「オジサン」「オッサン」にさならが出世魚のように「少年」→「青年」→「オジサン」→「オジイサン」と変化して行くわけであるが、出世魚であればブリに相当する脂の乗った最高の時期であると自負しているのにも関わらず世間はそう見ていないようである。オジサン・オッサンの世間の評価は「独特の臭みとクセが強い」と敬遠される時期であるようだ。たまに「そのクセが好き♡」なる変わった趣向の人を見かけるが、私の私見では全体の0.1%程度だろうか。多分変態である。では我々はいつから、「青年」→「オジサン」になるのだろうか。30代〜で自分はもうオッサンだと肩を落としている青年をよく見かけるが、私から見ればオッサンでも何でもなくまだまだ若い青年だ。しかしながら、デップリと太りハゲ散らかした身なりの汚い男とスラっとした爽やかなスポーツ男が並んでいれば、同年代にもかかわらず間違いなくデップリ男に「オッサン」の称号が与えられるだろう。そう、私が思うに忌み嫌われるオジサン・オッサンに年齢はあまり関係ないのでは無いか、と思うのである。私の感覚で言うと、オジサンと呼ばれる人はあまり嫌われていない中年男性、オッサンと呼ばれる人は悲しくもクセが強い(feat.千鳥)男となるのではないだろうか。ではオッサンと呼ばれないように我々オッサンは努力しなければならない。デリカシーのない発言はしない、無駄に説教を垂れない、俺が俺がと前に出ない、新幹線のシートをバカみたいに倒さない、電車で足を広げて座らない、身なりは出来るだけ小綺麗にする、意味もなく立ったり座ったりガチャガチャしない、ポケットに手を突っ込んでチンコを掻かない、小便をする前に手を洗って小便してから手を洗わないで出て行かない、満員電車でファッションヘルスのサイトをスマホで見ない、ビニール傘を横に持って手を振って歩かない、お前タバコのフィルター丸呑みしてんじゃねぇの?みたいなタバコの吸い方をしない、ポケモンGOでお前は高橋名人かと思わせるような1秒間16連射はしない、お前はコラおじさんかレベルの大きなクシャミをするなビックリするだろ等などである。こういう男は我々オッサンでも鬱陶しい。色んな事を諦めずに出来る範囲で気を回せば、人は我々のことを「オジサン」もしくは「ブリ」と呼んでくれるだろう。キチンと散髪に行く、爪を切る、スーツや靴を綺麗にする、とそれだけでもその男が初対面だとしても「あぁ、この人はそういう所にちゃんと気が回る人なんだな」と私は安心する。忌み嫌われるその「オッサン」とは、相手がそう感じてしまうことであり、我々が嫌われるような事をしているのだと自覚するのが吉である、とそんな風に思うのである。別に好かれたいと媚びる必要は無い。自分をちゃんと持ってやれる事をやるだけだ。ではその手の事は大体やってんのにそれでも俺めっちゃ嫌われてるやん的な私のようなオッサンはどうなるのか。これは性格の問題なのでもう直しようがない。性格が悪いのはもうどうしようもないが、私もいつかあのブリになりたい、そう思いながら私は毎週日曜日にせっせと靴を磨いているのである。

 

アーメン。