革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

私は艶やかなコスプレイヤー

こんにちは。コスプレイヤーわべの部屋へようこそ(ニッコリ) アホな私も「主語の大きさ」なるインターネッツのルールを覚え、はてなでのIDコールで呼び出し喰らうことも少なくなって来ましたが久しぶりに呼ばれたのでご紹介しながらお話してみましょうか。主張という程の話ではないので私の考えなどをつらつらと。

 

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最初にお会いした時から可愛い人でしたが最近また女に磨きをかけておられるエルベ様です。未だに「友達だろ?」と聞くと「違う」と返ってきます。あと何年かかるのでしょうか?この記事の中では格好をどう捉えるのか、的なお話が書かれております。私が小綺麗にしてるのは「格好をつけたい」は勿論含まれてますがもう一つ理由があります。

その理由とは「相手に警戒させる」というもの。普通、営業マンなら親しみやすく警戒を解く手法を選ぶものですが、私は真逆、裏の裏は裏である的なよく分からない深読みをして自爆、卵が先か鶏が先か的な話と胡散臭い見た目を融合させて相手を煙に巻くなどという戦法は最終的に詐欺師がよく使用する手法であるがまぁ似たようなものだ。

冗談?はさておき、何故相手を警戒させるのか、であるが、私の会社などは誰も知らない看板の大きさなど無いに等しい会社だ。大きな会社に勤務されておられる猛者達には分からないだろうが、会社の規模やネームバリューというものは商談にいちいち影響する。例えば1万円の物を売る時、相手に「コイツはこれを売りたいんだな」と思わせると私は負けるのだ。だから私は見た目だけでも最初からバッキバキに武装する。第一印象で完全武装していれば、相手は少し「引く」のである。

話始めればそこからは私の実力しかもう武器はない。知識も技術も無ければ、ただの格好つけたバカなオッサンとして相手にされなくなるだけである。しかしながらそこでちゃんと話が出来れば、会社の規模など関係なく「ウチの商品が欲しいのか否か」だけ集中して話が出来るし変な値切りも発生しない。私が強気の金額を提示してもそこには「相手が欲しいのか欲しくないのか」だけで、後はその金額でOKなら連絡して下さいと商談は終わる。

結局私は「見た目だけで変な隙を作りたくない」という理由で武装してることになる。靴もスーツもシャツも。「隙」を作るのは話し始めてちゃんと同じ高さで話が出来ているなと確認してからでよい。誤解のないように記しておくが、そんなに良い物ばかりを身に付けている訳では無い。クリーニング然り、靴磨き然り、いつも綺麗にしているだけ、である。ワイシャツのお気に入りはユニクロ。あれはめちゃ良い。

格好は多分人格を変える。仕事する時はバッキバキのスーツを着るしバンドする時はボッロボロの革ジャンにボッロボロのジーパンにボッロボロのブーツ。家にいる時はパーカーにジーパン。そのシチュエーションと格好で我々は顔も話し方も仕草も変わっているのではないか、と私は思っている。

 

女性と食事をしている時は、鼻の下がびんよよよーんと伸びきって気持ち悪いオッサンと化しているのは言うまでもない。

 

これを書きながらエルベ氏が友達になってくれない理由が今判明した。

 

 

私は男の子ですから

こんな年になっても未だにカッコイイものを見ては私もそこに行きたい、私もそうなりたいと思うのですよ。振り返ってみましょうか。

幼稚園の頃は覚えてないなぁ。小学校に上がるとやはり仮面ライダーや戦隊モノですよね。私の時代は仮面ライダーV3だったかな?あとはキカイダーとかサンバルカンとか。小学校3年生くらいの時はキン肉マンが流行ったのでずっとキン肉マンの絵を描いてました。ウォーズマンが好きだった気がする。

高学年になって音楽に興味を示す。その頃は友達のお兄ちゃんからワケも分からず洋楽を借りて聴いていました。ジェネシスとかスティービーワンダーとか。中学に上がってブルーハーツを友達から借りてぶっ飛んでギターを始めた。中3でX JAPANのHIDEでメタルに目覚める。

そこからずっとバンド関係の「カッコイイもの」をギター・ベース・ドラムに関係なく、探して見つけては俺も!俺もカッコ良くなりたい!と思ってました。

20代の中頃で仕事の基本的な考え方みたいなことを当時の社長から教わって本格的に仕事にのめり込んだのは30歳になってから。今で言う詐欺師の集まりみたいなクソみたいなブラック企業で仕事をしていたんですがそこでも所謂「カッコイイサラリーマン」を見つけては「俺も!俺もカッコイイサラリーマンになりたい!」と思っては真似してましたよね。

今振り返るとその時「カッコイイ!」と思って真似してた事が今の私を作っているわけで、今の私がカッコイイがどうかは別にして常にカッコ良くなりたいと思ってるわけです。それは見た目とか容姿の話ではなくて、身に付けているものとか仕草であったり、考え方であったり人との対応の仕方や切り返しであったり。

私はまだ、こんな歳になっても私がカッコイイと思った人の真似をしてるのですよ。私がカッコイイと思ったものを集めてるんです。世の中にはオッサンでもオジイサンでもカッコイイ人は山ほどいるんですよ。女性にモテるとかそんな話ではないです。別に誰かに分かって欲しい訳では無いしね。男臭いのが好きだし。そんなの流行ってないし。

仕事が面白いとかどうのこうのって話もそうだけど、上に行けば行くほどカッコイイ人がそこにはいて、今はギリギリ私が思う男臭いカッコイイオッサンやジイサンが大きな会社に残ってるんです。私はその人達に会いたい。会って話がしたい。どんな所作なのか、普段何してるのか、今の私の年齢の時に何を考えてたのかを聞きたい。

私には時間が無いのですよ。同年代に私がカッコイイと思う人が少ないんです。私がカッコイイと思うそんな人達が定年で居なくなる前に会いに行かなくては。そうするにはもっと勉強しないといけないし仕事の実績を上げないと行けないし人格を磨かないといけない。暇を見つけては文句ばかり吐くダサいオッサンと酒を飲む時間は私には無いのです。

 

という事をこんな時間にカラムーチョ食いながら書いてます。プロのデブですから。

 

 

そういうところが不愉快なんだ

死んでくれよ。と、さすがにそこまでは思わない。死ななくても良い。しかしながら世の中色んな奴がいる。顔見知りの奴から知らない奴まで色んな人間が我先にと自身の欲望を隠しもせずにあらゆる屍の上で「得」を貪り食っているのだ。

自分の利益のためなら誰かの不利益など気にしない、息をするように嘘を吐き、他人の痛みには無頓着なのに自分のかすり傷は大声で痛いと叫ぶ。私はそういう自分勝手な人間をいつも頭の中の「嫌いフォルダ」に放り込む。

身近な人間からニュースなどで報道される頭のおかしな人間全て。人の怒りの感情に油を注ぎ、負の感情はその他大勢に伝染する。私はこの手の迷惑を撒き散らす人間にどうして欲しいのだろうか。

別に死んで欲しいわけではない。謝って欲しいわけではない。泣いて欲しいわけではない。せめてやって貰えないだろうかと思うのは一つだけ「悪びれて」欲しい。自身が恥ずかしい事をした、悪い事をした、迷惑をかけたとちゃんとそれらを自分で気付き「悪びれて欲しい」のである。

我々は日本人だ。虚勢を張って外見ばかりをよく見せるより、内面の丁寧さであったり豊かさを心の中で静かに育てる、控えめに誰かを引き立たせるのが美しさではないのか。最近は醜い奴らが多すぎる。その醜い人間たちは悪びれない。当たり前である。自身が恥ずかしい事をしていると認識していない。

醜い連中が勝っているその場面など見たくない。プレゼンテーションが上手いだけの奴らばかりが勝つのか?よく分からない主張を大声で叫ぶ輩が何かを掴むのか?そうではないと私は思う。恥ずかしいことを恥ずかしいと思わないその心が強さだと勘違いしている輩を見ると、腐った根性の腐臭と醜く歪んだ笑みに吐き気がする。

罪を憎んで人を憎まず、私がいつも憎んでいるのはこの言葉の中の罪でも人でもない。その手の人間から放出し透けて見える悪びれない態度や自分勝手な思考が私を苛立たせるのである。胃の上に据わったその苛立ちを、私は何とか身体の外から出ないように踏み潰す。踏み潰すそのブヨブヨとした苛立ちは心の中で弾け飛び、心の染みとなっていつまでも残るのだ。

 

さて諸君、私が何故このような鬱蒼とした気味の悪い文章をタラタラと書いてるのかを説明しようか。今朝私は口を開けてバカみたいな顔をしながらイヤホンでSOUL'd OUTを聴きながら吊革に捕まり、その日のヤル気を絞り出そうと奮起していたわけだが、突然頭に鈍い痛みと衝撃、そして目の前に火花がババっと広がった。

一瞬の出来事で何事かと顔を上げると、そこにはドデカい身長をした外国人のサッと引く手の残像が見え、同時にニヤリと笑みを零す醜い顔面を私は捉えた。多分だが吊革に捕まっていたそのバカデカい手が滑って私の頭に直撃したのだろう。フザケルナ!オイ!私の頭に血が上り、体温が上昇するのを感じたその時、私はすぐこの場を去ろうと決めた。その理由は、頭に衝撃が走ったその瞬間、驚きと痛みで私の口は「ギャイン!!」という擬音を発した。

 

ギャイン!

 

言うだろうか。いや、言わない。けど、言った。確かに私は言ったのだ。怒りと悲しみが混在する私の心は「ギャイン」と言ってしまった恥ずかしさに負け、足早にその場を離れる事を選択したのだ。せめてoh Sorryぐらい言えよあの外国人め。そういうとこだぞ。もっと悪びれろ!許さねえからな!

 

ギャイン!!!

 

 

私はただのハウスマヌカン

どこ行ったんでしょうか。ハウスマヌカン。知ってますかあなた達。知らないでしょう?ハウスマヌカン。私が若い頃(というか子供の頃)は居たんですよ。洋服屋さんがブティックと呼ばれていたその頃、母親がたまに入るブティックにそのハウスマヌカンはいた。先程からハウスマヌカンを何度も連呼しているが、ハウスマヌカンは洋菓子でも妖怪でもない。ただの販売員である。しかしながらただの販売員と言っても、私のハウスマヌカンに対するイメージは妖怪のそれと変わらない。ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせばしだれ柳に早変わり〜と歌いながら伸びる南京玉すだれのようなピンと張った前髪、幼心にジャミラか、はたまたアメフトかと母親のお尻に隠れながら観察したあの肩パット、蕎麦?え?蕎麦なの?的な髪型のソバージュ、挙げればキリがないのでこの辺でやめておくが、私が住んでいた大阪の外れのその町にも確かにブティックはあったしハウスマヌカンはいたのだ。と、ここまでハウスマヌカンの事をヌラヌラと書いてしまったが、別にハウスマヌカン自体をどうのという話がしたい訳ではない。何を隠そう私はハウスマヌカンであるのだ、という話をしていきたい。私は仕事でもプライベートでも、男女の関係であっても、ハウスマヌカンのような立ち位置、距離感を心がけている。どういう事かと言うと、こちらからはアプローチをしないが、相手が「わべさん」と呼べばすぐに対応出来る距離に私はいる、という事である。近すぎても鬱陶しい、離れすぎると呼んでも来ない、そんな距離ではなく、誰かの邪魔をしないように作業をしながら「すみません」と声が掛かればすぐに「いらっしゃいませ」と返せる距離を、私は誰に対しても、いつも測っているのである。それが不特定多数の誰かの仕事の依頼なのか、相談なのか、お願いなのか、SOSなのか、別に何でもいい。それが現実社会でもインターネットの中でも良い。私がこの人好きだな、と思えば付かず離れずの一定の距離を測りながら、どこに立てば私が邪魔にならないかな?と考えながら存在するのである。理由など特にない。私に出来ることがあるなら何かをしてあげたいけど、対価が欲しい訳では無い。なりふり構わず何かを求める執着や自分勝手に欲を満たす誰かのその醜い顔面に戦きながら、私が考える還元や人との繋がり、そこに私は私の存在意義を見出そうとしているのかもしれないなと漠然と考えることはある。私はどこか遠い国で困っている誰かの事や、この国の政治やシステムに興味を持つほど頭が良い訳では無いし、私がどうにか出来るような場所に立っているわけでもない。近くにいる人でも、私から「助けたい」なんて分をわきまえない事も考えない。しかしながら「あ、わべさん、私今困ってんだよねー」と声を掛けて貰えれば私に出来ることはやる。それが還元であり今までやった悪事の埋め合わせであり償いだと思っているのだ。もちろん帳消しになるなんて事は思っていないが、悪い事をしなくても生きていける大人になった今、片手もしくは両手が空いてるその時に誰かの何かを手伝いたい。それだけである。雲をつかむような大きな正義を大声で叫びながら自身に近い周囲に不愉快や迷惑を撒き散らす、私はそんな年の取り方をしたくない。

 

そんな事を思いながら、今日も私は前髪をピンコ立ちにさせてソバージュをあて、巨大な肩パットに真っ赤なルージュを引いてあなたの後ろに立っているのです。

 

あなたの後ろに立っている。

 

あなたの後ろに…

 

 

わたしがオジサンになっても

さて、今回は世の中でどこに行っても無視され虐げられ忌み嫌われるオジサン・オッサンについて書いてみたい。我々男は必ずこの「オジサン」「オッサン」にさならが出世魚のように「少年」→「青年」→「オジサン」→「オジイサン」と変化して行くわけであるが、出世魚であればブリに相当する脂の乗った最高の時期であると自負しているのにも関わらず世間はそう見ていないようである。オジサン・オッサンの世間の評価は「独特の臭みとクセが強い」と敬遠される時期であるようだ。たまに「そのクセが好き♡」なる変わった趣向の人を見かけるが、私の私見では全体の0.1%程度だろうか。多分変態である。では我々はいつから、「青年」→「オジサン」になるのだろうか。30代〜で自分はもうオッサンだと肩を落としている青年をよく見かけるが、私から見ればオッサンでも何でもなくまだまだ若い青年だ。しかしながら、デップリと太りハゲ散らかした身なりの汚い男とスラっとした爽やかなスポーツ男が並んでいれば、同年代にもかかわらず間違いなくデップリ男に「オッサン」の称号が与えられるだろう。そう、私が思うに忌み嫌われるオジサン・オッサンに年齢はあまり関係ないのでは無いか、と思うのである。私の感覚で言うと、オジサンと呼ばれる人はあまり嫌われていない中年男性、オッサンと呼ばれる人は悲しくもクセが強い(feat.千鳥)男となるのではないだろうか。ではオッサンと呼ばれないように我々オッサンは努力しなければならない。デリカシーのない発言はしない、無駄に説教を垂れない、俺が俺がと前に出ない、新幹線のシートをバカみたいに倒さない、電車で足を広げて座らない、身なりは出来るだけ小綺麗にする、意味もなく立ったり座ったりガチャガチャしない、ポケットに手を突っ込んでチンコを掻かない、小便をする前に手を洗って小便してから手を洗わないで出て行かない、満員電車でファッションヘルスのサイトをスマホで見ない、ビニール傘を横に持って手を振って歩かない、お前タバコのフィルター丸呑みしてんじゃねぇの?みたいなタバコの吸い方をしない、ポケモンGOでお前は高橋名人かと思わせるような1秒間16連射はしない、お前はコラおじさんかレベルの大きなクシャミをするなビックリするだろ等などである。こういう男は我々オッサンでも鬱陶しい。色んな事を諦めずに出来る範囲で気を回せば、人は我々のことを「オジサン」もしくは「ブリ」と呼んでくれるだろう。キチンと散髪に行く、爪を切る、スーツや靴を綺麗にする、とそれだけでもその男が初対面だとしても「あぁ、この人はそういう所にちゃんと気が回る人なんだな」と私は安心する。忌み嫌われるその「オッサン」とは、相手がそう感じてしまうことであり、我々が嫌われるような事をしているのだと自覚するのが吉である、とそんな風に思うのである。別に好かれたいと媚びる必要は無い。自分をちゃんと持ってやれる事をやるだけだ。ではその手の事は大体やってんのにそれでも俺めっちゃ嫌われてるやん的な私のようなオッサンはどうなるのか。これは性格の問題なのでもう直しようがない。性格が悪いのはもうどうしようもないが、私もいつかあのブリになりたい、そう思いながら私は毎週日曜日にせっせと靴を磨いているのである。

 

アーメン。

 

 

心から何かを楽しむ感情の欠落

私はいつも息子に対して心の中で申し訳ないという思いを抱いている。直近でその思いを抱いたのは2ヶ月ほど前に行ったディズニーランドで、である。いつも仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事休み仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事仕事ライブ仕事仕事仕事仕事仕事休み仕事仕事仕事仕事仕事仕事みたいな生活をしているので、年に数回、遠方に連れて行く約束を家族にしている。その中の約束で企画したディズニーランドでの出来事、とは言っても何かがそこで起きたわけでは無い。ショーを観ながらの昼食で、やたら身体のデカい外国人とウッディーが踊って歌っているのを観ているその途中、観客みんなも立ち上がって一緒に踊ろう!と見知らぬ家族と手を繋ぎ、そして一緒に踊るそのイベントを我々家族も参加した。対面を見ると私ぐらいの年齢のお父さんがそれはもう楽しそうな顔で、それはもう大きな動きで、それはもう大きな笑い声で子供たちと笑いながら踊っていた。さて、私はどうだろうか。周りに合わせた振り付けで踊りはするものの、あれほど楽しそうには踊れない。照れもあるのだろうが、私にはあのお父さんほど楽しそうに踊れないし、心底このディズニーランドを楽しんでいるのかと言われると疑問符が付くのである。その時私は子供たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ。あのお父さんのように、あのお父さん自身のように楽しんでいれば、ウチの子供たちももっとディズニーランドを楽しめるだろうにと。私は子供たちに目を向け、子供たち「が」楽しそうにしてる顔を見ると私も楽しい気分になるが、私には「その場を楽しむ感情」が欠落している。遊園地の他ではカラオケなども苦手となる。歌を歌えと言われれば歌う事は出来るが、楽しめていない自分の居場所をいつも探しているのである。その空気を出さないように取り繕って騒ぐわけだが、その電池は何時間も続かない。変な空気を出してしまうと楽しんでいる人達に申し訳ないと、私はいつもカラオケを辞退するというわけだ。ふと思い返すと、若い頃はよくカラオケに行ってたよなと考えてみると、その頃私は酒を飲んでいた。酒は私のその変な感情の線をボンヤリと滲ませる効力を持っているのだなと再確認した。誰かと食事をしたり何人かで飲んだりするのは私も楽しい。その感情がある条件下では全くといっていいほど顔を出さないのだ。色んな場面で色んな空気の中、その場を最大限楽しめる人が世の中には沢山いるが、私はその人達が本当に羨ましい。所謂パリピなんて人達はその最たる人達なんだろう。私はそのパリピ達を街で見かけるとジッと観察してしまう。なぜそんなに楽しそうなんだ。どうやったらそんなに楽しめるのだ。私はその誰かの楽しそうな姿をお手本に、「パパ今日楽しそう」と子供たちに感じてもらうために、今日も誰かの楽しそうな顔をジッと眺めているのである。

 

 

物怖じしないだけの営業マンなんて大した事ない

営業という職業は偏見にまみれていると私はいつも思う。リア充的な何かであったりよく喋るであったり目立ちたがり屋やら率先して何かをやる人物。そんな人物を目の前にするとよく「営業向きだよね」なんて言葉を聞くが果たしてそうだろうか。何を隠そう私も営業マンである。と同時に私は「喋るのがあまり好きではない営業マン」なのだ。営業マンなのに喋るのが好きではない。何なんだお前は。バカなの?何の話してんの?とお思いだろうがこれは紛れもない事実。基本的に人前で喋るのは好きではないし明るいか暗いかで言うと根暗・むっつりスケベゾーンに属する気持ち悪いオッサンである。そんなむっつりしたオッサンでも無名の零細企業にて年間数千万の売上を上げているのでここで少し話してみたい。営業職はキラキラしているように見えるが実はそうではない。毎日数字に追われ、その数字を達成する事だけを評価とされる営業職。地獄である。よくドラマなどでは成績表を壁に貼られて「お〜いわべちゃんよぉ〜なんなのぉ〜この今月のすぅじぃ〜おめぇやる気あんのお〜?今までなぁにやってたのぉ〜?寝ぇてたのぉ〜?どぉやったらこんなすぅじなのに普通の顔して毎日出社出来るのぉ〜?今日中に何とかなるわけぇ〜?幾ら出来んのぉ〜?え〜?聞こえなぁい?なんてぇ〜?」などと詰められる日々である。さすがにこんな会社は今どき無いだろうがまぁ似たようなもんだ。そこで営業マンはなるべく売れるような文句を考え、出来るだけ多くのお客さんと話をして、喋ること、物怖じせずとりあえずお客さんにぶつかって話をすること、グレーゾーンの嘘を吐きながら営業活動に勤しむのである。そうやりたい奴らはまぁ頑張れや。

 

私は違うことを考えた。

 

難しい話ではない。考え方を変えたのだ。「売りに行く」のではなく「欲しいものをお客さんに聞きに行く」のである。「喋りに行く」のではない。「聞きに行く」のである。当たり前だが「喋らない」と言っても一般的な会話は勿論する。ここで言っているのは「売りたい」とか「買って欲しい」話はしないという事である。重要なのは自分に何が出来るのかを、しっかり、なるべく簡単に説明出来て理解を得られれば喋ることなど他には無い。私はそこから相手の話を「聞き出す」事に集中する。そしてその相手から聞き出した情報にポロポロと私の知識や情報を付け足すのである。そのコメントが相手の興味を引けばもうこっちのペースである。それを何度も繰り返せば良い。話を聞くのだ。言い換えよう。情報を引き出すのである。相手の話をちゃんと理解しちゃんと相槌を打ち、ちゃんと笑ってちゃんと返事をする。その中に相手の欲しい物や困っている事など、ヒントが沢山隠れているのだ。その情報が例え自分の売上にならなくてもいい。知り合いを紹介してあげれば相手は必ず喜んでくれる。私は思うのだ。御用聞きという言葉はあまり良い意味では使われないが、自分の話しかしない、自社の製品のPRしかしない、売りつけようとよく喋る営業マンでマトモな人間を見た事がない。私が話したい事を話しに行くのでない。相手が何を求めているのかを探りに行くのである。

そこで売れなくても良い。私が欲しいのは「おいわべこういうの知ってる?」であり「おいわべこんなの出来る?」であり「おいわべこんな人いるけど会ってみる?」であり「おいわべこないだこの話してなかった?」であり「おいわべ」なのだ。私は今こちらからアプローチをする営業活動を全くしていない。全て相手から「おいわべこんな話あるけど出来る?」である。こんな人達が私の周りにわんさかいる。元を辿れば全て私が「話を聞きに行った人達」であり「私が誰かを引き合わせた人達」であり「私を誰かが引き合わせてくれた人達」である。そこに退屈な製品説明の棒読みPRは無い。製品は後だ。相手が私に期待してるのは「コイツに言えば何か知ってる」という事である。この手法は私が家具屋にいた時から変わってない。お婆ちゃんが「わべちゃんちょっと聞いて。こんなタンス欲しいんやけど知ってる?」と聞いてもらえる営業マンになること。そんな人達を出来るだけ多く増やすこと。私は自分の言いたいことだけを喋らない。売りたい製品の話だけをしない。私が話を聞くのである。相手から私に話したくなるような人間になるのが目的。

 

我々営業マンは売るマシーンではなく、むっつりスケベな心を持つ一人の人間なのだ。