亡霊の戯言

どんな理由があれど悪は悪。価値観?知るかそんなもん。

私はずっと怒っている

常に激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームである。ビッグバンテラおこサンシャインビーナスバベルキレキレマスターである。まぁどっちでもいい。私が何かをする時のエネルギーは常に「怒り」であるので怒っていないとモチベーションがダダ下がりするのだ。仕事のモチベーションは言うまでもなく、バンドのやる気は勿論怒りである。

え?なんでそんなに怒ってんの?と言われると返答に困るが、もう10代の頃から私は「怒るとめちゃくちゃ行動出来る」という事を認識していた。それを自身で気付くことになったのはある引越し屋でバイトしていた時の事だ。今でこそ引越し屋さんは一軒一軒綺麗な靴下でにこやかで爽やかで礼儀正しい青年が多く働いているが、我々が若い頃の引越し屋など「ヤンキーの巣窟」であった。

お客さんに失礼な態度は取らない(取っているアホもいたが)が、新人にやたら厳しいと言うか体育会系と言うかシバキ系と言うか虐め系と言うかまぁそんなものであった。私も知っててその引越し屋のバイトに入ったわけだから、多少の覚悟はしていた。家具や重たい荷物を持つのは持ち方やコツがあって、それを知らないと必要ない力を使う羽目になり疲れが倍増する。新人の私にそんな事が分かるはずもなく、すぐにバテていたが何とか毎日を過ごしていた。

ある日、私が嫌いなパイセンと言うかヤンキーとコンビになった。私より身体は小さくて、自慢話が好きなよく喋る嘘つきであった。面倒だなと思いながらその日は3軒の引越しを朝から行っていた。2軒目は比較的荷物が少ない家であったが、引越し先が賃貸マンションから新築戸建ての引越しだったのだ。新築はかなり気を遣うが段取りよく荷物が運ばれていった。

運び入れも終盤に差し掛かった頃、天板に石が貼ってあるテーブルがあり、一人では持てないので養生を取ってトラックで待っていた。一緒に運んでいる途中、室内の階段の所でヤンキーは早く行けと言わんばかりにグイグイと押してきたのである。テーブルと階段の間口はギリギリ。ちょっと待って下さいと言っているにも関わらずそのヤンキーは執拗に押してきた、その瞬間、階段のクロスを擦ったのだ。ヤバイ。ザックリだ。

ヤンキーは報告・謝罪に行ったので聞き耳を立てていると、慣れない新人の私のせいにしていた。あーコイツはクズなんだなとそこで認識し、私は何も言わずに、静かに怒った。一人では重量的に厳しい物も私は1人で運び、バテることなくそのヤンキーに「早く行けよ」的なプレッシャーを掛けながらグイグイ運んだ。休憩?アホか。お前だけ休んどけや俺運んどくから。しょうもないのう。と口にはせずとも顔や態度に出ていたと思われる。この時気付いたのだ。「あ、俺怒ってると結構頭と力が出るな」と。

仕事も、バンドも、このブログも同じだ。怒りがモチベーション。怒ってないと書けない。怒りは何も生まないという言葉をそこここでよく見かけるが、そんな事は無い。私は怒りながら色々生み出すのだ。知恵も言葉も体力も。コイツだけは絶対許さねえという負のパワーを表に出さずニコニコとしながら静かに怒る。先日Twitterでお嬢から「男の子ってずっと何かと戦ってるわよね」というコメントを貰った。そうだ。43歳のオッサンも意味もなく誰かとずっと戦っているのだ。

その闘志と諦めのバランスが崩れた時、男は堕ちるだけ堕ちてゆくのである。

 

戦えオッサン。

 

 

人の本当の優しさは口を開けて空を見てるだけでは口には入らない

と言うようなことをある人と話していて思ったのだ。「本当の優しさについて」である。ほんの小さな優しさは私もよく振りまく。相手が誰だかよく分からなくても「ガム食べますか?」「飴一つどうですか?」程度のものは自分をすり減らすものでは決してない。ただただ与えるだけの小さな優しさ。しかしながら本当の優しさというものは、優しくする方も優しくされる方も衝突して傷つかないと見えないのである。片方が本当に大切に思いながら優しく気遣っても、片方が傷つくのを恐れて立ち止まるとその優しさには気付けない。これ以上痛いのは嫌だと踵を返してしまう弱さは、相手の本当の優しさを闇に葬るのだなと思った。私はインターネッツの関係性など希薄この上ないと思っている。誰一人本当の事など書いてなんかいないと。せいぜい飴やガムのやり取りをしてれば良いじゃないか。私は本当の事を書いている!という人もいるだろう。しかしそんなもの全ては伝わらない。「書き方」と「読み方」でその文章の本当の意味はまるで正反対になるのだ。こんな、嘘と虚勢と誤解しかないインターネッツで、ただジッとしてるだけでは誰かの本当の優しさになんて触れられるはずがない。誰かと分かり合うのなんて無理だ。存在してるのかどうかすら怪しい人と薄く繋がって深く傷つけ合うのは不毛以外の何物でもない。インターネッツなんてもっといい加減で良いし、はっきり言ってどうでもいい世界だと私は思っている。誰かの本当の優しさを知りたいなら、会ってちゃんと目を見て話をして、笑ったり怒ったりするのが本来の姿であると思う。我々の居場所は現実社会である。勘違いしてはいけない。ネットの言葉だけがどこかの誰かの本心ではない。現実社会でお互いを認識し、その人の言葉を耳で聞き、その人の優しさが少し見えた時、信用が生まれる。嘘か本当かは、相手の声と、目と、仕草で、自分自身が判断すればよろしい。

 

現実社会でおっぱい揉みたい。

 

 

派閥とかテリトリーとかにあまり興味が無い

若い頃から派閥とか集合体に私はあまり興味がない。

友達が誰々の事嫌いだから俺も近寄らないとか、あのバンドはあのグループだから話さないとかそういう類の、よく分からない人間関係の動き方をしていなかった。だから友人やバンドでは結構幅広い人脈を持つことが出来た。

友人はオタクからナンパ野郎、ヤンキーやDQN、堅い職業からアングラまで、バンドに関してはパンクだけではなくロックンロールからヘヴィメタルヴィジュアル系まで仲の良い奴がいた。

今の仕事でも同じである。会社やそこの社長は嫌いだけどそこの社員とは仲がいいとか、対立している会社の両方と仲がいいなんてのはザラである。もちろん派閥で分かれている人達が大半である。そこであっち行ってゲラゲラ笑い、こっち行ってグヒャヒャと笑っているのは私だけである。

そうしながら周りの人達を見ていると、横の繋がりのない会社や人間は必ず情報が偏っている。当たり前だ。お互いに情報を隠しあっているんだもの。自分達で視野を狭くしている。これは気付かずにやっているのではなく、気付いているのに派閥や人間関係に縛られ囚われて動けないのである。

そこにあっちこっちでウロウロしてヘラヘラしている私は重宝がられるのは言うまでもない。決して情報を漏らしているわけではない。お互いに必要な話はしといた方が良いんじゃないの?的な場合の「繋ぎ」で呼ばれるのだ。誤った情報や既に決定した事項などで自社のロスをなるべく減らしたい場合の「繋ぎ」が多い。そして最新の情報が私にいつも来るという美味しい話なのだ。

ここのブログやTwitterも同じである。「誰と誰が繋がってるか」は私はどうでもいい。「私は誰と繋がりたいか」であり「私は誰と話したいか」であり「私は誰に会いたいのか」でしかない。会いたいと言われれば尚更である。断る理由は何も無い。となると情報量は数倍・数十倍となるわけだ。別に情報が欲しくてブログやTwitterをやっているわけではないが。

私の思うここインターネッツの楽しい点は「何かを知れる」という事だけだ。その情報や人間関係を派閥などで遮断する必要は私には無い。誰かといるから私から離れるというなら、離れてもらっても構わない。それで最終的に一人となるなら私の魅力などそこまでなのだ。楽しい場所を楽しい場所としてあり続けるには自分自身の動き方が左右する。

「最悪一人」を覚悟しながら、私は好きな人を増やしていくのである。

 

ずっと一人だけど。

 

 

誰の味方も出来ない

その怒りは優しさから生まれた怒りで、誰かが誰かを守ろうと必死になっているのが見て取れる。私が中学生の頃夢中になった漫画がある。言わずと知れた湘南爆走族、湘爆である。その漫画にこんな一幕がある。30年前に読んでいた漫画で朧気な記憶しかないのでご了承頂きたい。湘爆率いるリーダーの江口、地獄の軍団のリーダー権田は敵対するチームでありながら、心の中ではお互いを認め合い、チームが違えば親友になっていたんだろうなという関係性。いつも啀み合い、イタズラを仕掛けては笑い合い、嫌いだムカつくと言い合っていた。ある日事件が起きる。地獄の軍団のペーペーが誰かにシメられた。そのペーペーは言う。「湘爆にやられた」と。権田は思う。アイツがそんな事するわけないだろう。しかし話は次第に大きくなり、湘爆と地獄の軍団の対立は激化する。これ以上、事を大きくする訳にはいかないとリーダー同士のタイマンが行われる。ペーペーは嘘をついていると分かっているのに俺は仲間を信じるというスタンスの権田、自分達は何もしていないが権田の立場を全て理解して立ち向かう江口。お互いに一歩も引かずボロボロになるまで殴り合うのだ。それを見ている仲間たちは「もしかして二人とも分かってるんじゃないか…」「あの二人何で殴りあってるんだ?」「悲しいな」と声に出さずそれぞれが思う。そして権田は仲間に殴り掛かる。「お前ら何年湘爆と喧嘩してんだ!」「ふざけるな!」「なんなんだこれは!」と。最後は黙って何も言わずに別れる。誰かを守るために誰かが泣くのは見てられない。本当に悪い奴がいれば良いんだけど、こういう悲しい喧嘩には絶対悪が存在しない。優しさに牙が生えると悲しいのだ。

 

ただのヤンキーの話、湘南爆走族のレビューです。

 

 

 

オッサンにだって希望はある

不覚にもこのフミコ氏の記事を読んで目を潤ませてしまった。最初に断っておくがお二人との面識など全くない。私が勝手にお二方のブログを読んでいる、ただの一読者である。

では何故関係のないお前のようなオッサンが感傷的になっているのだと言われると、お二人が楽しそうにしている様子をブログで見ていたからである。本当楽しそうだなー良いなーと思いながらその時そのブログを読んでいた。私にはそのテキストが本当に楽しそうに見えた。

オッサンだって楽しい事は沢山あるしやりたい事も沢山あるんだとその記事を読みながらニタニタしてしまった。希望は若者たちだけのものではない。40代になった我々だって希望はあるし、逆に我々おっさんにしか掴めない光がある。

私も死ぬほど忙しいし寝れないし色々大変だけど今はすごく楽しい。Hagex氏も本業を上手くこなしながら、次はこうしたい、ああしたいと色んな事を思い描いていたんだろうと沢山の追悼記事を読みながら想像する。

そんな光を掴もうと頑張っている人が、ロクに頑張ってもいない人物に、頭のおかしな人物に、闇を抱えた人物に、突然その光を塞がれるのである。こんな理不尽な事は無い。同年代のオッサンとしてこんなに悔しい事は無い。こんな無念は私には想像できない。

40代なんてなってみれば分かるけどまだまだなんだよね。もうね、全然よ。知らないことは沢山あるし知りたいことも沢山ある。これからがもっと面白いのよ。でもそうやって視界がブワーっと広がって見えるのは頑張ってる人だけなんだと思う。

色んな事にチャレンジしてるHagex氏をこれからも見ていたかったなと思った次第であります。あんなクソみたいな野郎共に生き残っている我々が決して屈してはならぬ。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

世界の終わり

私はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの事をあまり知らない。若かりし20代の頃にテレビか何かで見た時、パンクでカリカリだった私は「こんなのパンクでもなんでもねえ」とTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの一切を拒否し遮断した。そして私がバンドを辞めて一般人に溶け込んでいたある日、ラジオかなにかで改めてTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの曲を聴いた。世界の終わりだった。カッコイイ曲だなぁと思ったが音源は買わなかった。そしてまた少しするとアベフトシの訃報をニュースで知った。

死んだらどうなるの?という増田を先日読んだ。死んだらどうなるの?アベフトシはあの日から止まった。生きていたら今は50過ぎであのギターはもっと変化してもっと深みが出てもっとカッコ良くなってたんだろう。アベフトシが死んでから私は少しずつ、一曲一曲THEE MICHELLE GUN ELEPHANTを聴き始めた。メジャーな曲からアルバムの曲まで。それはどれも私の神経を触るものばかりでいつも興奮するが牛丼をかき込むような聴き方はしてない。一曲一曲気が向いた時に聴いてる。

アベフトシはあの時から止まったのか。否、私の中では止まってない。アベフトシのギターが私の耳に入り、私の手に伝わり、ギターの弦を振動させ、スピーカーから音が出てくる。自分達の曲を演奏していても、たまに「アベフトシみたいな弾き方だなw」と1人でニヤついている。遅めの8ビートに16のコードストローク。あの人がいなければ、あの音を聴いていなければ私はあんな弾き方は絶対にしない。アベフトシはこの世に「あの音」を残し、あの音を聴いた人に入り込み、新しい音を作り出すのである。

 下に貼り付けてある動画のアベフトシの表情が好きだ。この時何を見てたんだろうなーなんて思いながらこの動画は何十回も見ている。ロックンローラーはみんな早死にするけど、その音を残してその音を聴いた我々に入り込んで離れない。人間は死んでも「無」にはならない。

 


世界の終わり / thee michelle gun elephant - YouTube

愛敬相

はてなの言及というのは、後ろからいきなりドンッ!と背中を押される「行為」である。驚いて後ろを振り返ると反論や批判が降って湧く。しかしよくよく見ていると悪い事ばかりでもなく、背中をツンツンと押される「好意」も他ブロガーの記事を読んでいるとあるにはあるようだ。私は未だそんな甘酸っぱい好意をここはてなで受けた事は無いが。いつも嘲笑され、欺かれ、罵倒され、攻撃されながら、ここはてなに虫の息で生息しているのである。そして気付くと言及通知のアラームがPC画面の隅っこで点灯していた。

nemurenai-same.hatenadiary.jp

はてなの狂鮫、さめ氏である。噛みつかれるとちょっとやそっとじゃ離さない強靭な咀嚼力を持っているので噛まれるとかなり厄介だ。私はなるべく誰にも見つからないようにグダグダとはてなに文句を垂れ流しているのだがどうやら視界の端っこで捕らえられたようである。内容を見てみると、さほど私の記事に怒っている風ではないので「ついでにコイツも入れといたろ。何か書きよるやろ。」的なものだろう。しかしながら私も男の子である。先日も「殴られたら殴り返す」と書いたところなので持論を書いてみよう。女性を殴る趣味は無いのでピコピコハンマーを構えながら。

「泣き声がうるさい」「騒ぐと迷惑」これらの所謂「騒音」や「喧騒」で迷惑が掛かっているのは、当たり前だがどの親も承知している。承知していないDQN的な例外もいるんだろうが、ほぼどの親も分かっている。静かな電車内で泣きだしたら泣き声がうるさいことなど分かっているし皆申し訳ないと思っているのだ。その上で、だ。「うるせえもんはうるせえんだよ」「こっちは我慢してんだよ」と誰が思っているのかも分からないその状況でどう対処するべきなのか。全てを完璧に対処するのは中々難しい。ケースバイケースであるからである。

この話は多分どれだけ議論しても平行線だと思われる。赤ちゃんは泣くし泣けばうるさい、子供は騒ぐし騒げばうるさい。気にしない人もいるし、うるさいと感じる人もいるのだ。我慢してください、協力してください、なんて私は思わないし言うつもりもない。では何故貴様は書くのかと言われれば、さめ氏の記事にもう書いてある。

育児中って本っ当にしんどいから

他人の目線1つに傷つくし

他人の一言に救われるんだよね。

 

だから

小野さんの言及した元のツイートは消えちゃっててよめないけど

できることなら

ツイッターとかブログとか目につくとこに

あんまりきっついこと書かないであげてほしいなとは思う。

そんな人ばっかじゃないからあんまり委縮しなくて良いんじゃね?的な声を挙げているに過ぎない。ギャァァァァァァー!!!と泣いてても「おー赤ちゃん頑張ってるなー。泣け泣け。」と思う人もいるのだ。心が広い狭い、余裕がある無い、ではない。我々は気にならないのである。単純な話だ。だから赤ちゃんや小さな子供がいる人達は「うわぁ...どうしてもあそこに行かなきゃいけないけど電車乗るの嫌だなぁ...」「あそこで食事しないといけないけど赤ちゃんいるしなぁ...」なんて思いながら引きこもる必要などない。全員が全員「うるせーぞおい」なんて思っちゃいない。

つらつらと書いたが私もただのその辺のチンピラである。嫌いな奴は沢山いるし悪口も文句も言う。人それぞれ嫌なものは違うんだからそれだけを見て卑屈になる必要はない。私は目の前で泣かれても気にしないし、子供がキャッキャと楽しそうに暴れていても問題ない。そういう人もいるんだと認識して頂き、少しは気を楽にしてもらえれば幸いである。私の座右の銘は「取らんと欲するものはまず与えよ」で、営業のやり方から何からまずこの言葉を思いながら日々生活している。このブログに書いていない私の所業は許しがたいもの、それは悪そのものばかりである。優しく出来るところはせめて優しくありたいと思っている。

 

ピコン!