亡霊の戯言

どんな理由があれど悪は悪。価値観?知るかそんなもん。

私の中のセックスとは何か

セックスが私の心を占める割合が減った。性欲が減ったのかと言われればそれはまた違う。人並みにまだ性欲はある。ただ今はあまりにも忙しいのでその性欲発散の優先順位は低い。それでも私は男である、人間である以上その性欲はちゃんとある。ただ闇雲に「セックスがしたい」とは思わなくなった、という話である。

若い頃、20代の頃はバカ或いは猿のようにセックスをしていた。特別容姿が整っているわけではない私でも、「バンドマン」という場所に立っていたのでそれが簡単に手に入る環境であった。「ホテル行く?」と言えば「行くー♪」と返ってくる、そんな場所に私はいたのである。誰でも良い。ただその人が私の目の前にいたから、私はセックスをしていた。

私の中のセックスとは一体何なのか、と今振り返るとただの承認欲求であり、ただの独占欲であった。どこかの誰かに私の存在を知ってもらう行為、認めてもらう行為だったのではないか。若しくは、私自身が、私の存在を確認する行為か。何れにせよ若い頃の私は、誰かとキスをして、誰かと肌を重ねて、誰かを私の籠の中に閉じ込めること、を繰り返した。

私の中のセックスが承認欲求であったなら、今の私がセックスを求めないのも納得がいく。必要以上に誰かに知ってもらいたいとは思わないし、誰かを私の中に隔離する必要も無い。「エロ」「射精」だけが目的なのであれば、自慰や風俗でその欲求は満たされるだろう。わざわざ誰かに恋愛感情を持ってセックスしなくてもよい。それをやって、今の私に、その先に何があるのだ、と問われれば多分何も無いと言い切れるだろう。

現実社会でもここネットでも「コイツら何でそんなにセックスしたいんだろ」と思う人間がわんさかいるわけだが、自分の「居場所」を確保するのに躍起になっているのかなと、頬杖をつきながらいつも観察している。「中に出しても良い?」と男が言うのは、相手の女の覚悟を握り締めたいから、安心したいからだ。そこにしか居場所を見い出せない男の末路は悲惨である。野菜を一日1kg食っても間に合わない。

これからのセックスを私はどう捉えていこうか。まぁこれほど醜くハゲ散らかして太っている私のような醜男を好き好んで寄ってくる女性は稀だから気にしなくても良いか。私のセックスの概念は今がちょうど良い。この年でセックスに溺れたりしたら要らぬトラブルを増やすだけである。セックスしたいという衝動が無いのは心と理性をコントロールしやすい状態にある。

我々はもういい大人である。遊びは遊びだとちゃんと線を引いて、自分の心と相手の心をぐじゃぐじゃに混ぜるようなセックスは私はしない。立ち振る舞いや所作をきちんと考えながら行動したい。いい大人がセックスで相手の心を揺さぶるのは下品だと私は思う。相手を好きだという感情、自尊心、我儘が全て混在したセックスは、それはもうモルヒネである。

 

おっぱいは別腹だから揉みたい←

 

 

ピッキングハーモニクスが鳴らなくて

今日は朝から病院に来ている。病院などいつも後回しの私にしては珍しい行動である。その理由は、このままではギターが弾けなくなるのではないか、と小さな不安が心の隅っこでチクチクと私を刺した。昨日の夜、バンドの練習でスタジオに入ったのだが、嫌な予感は的中した。ギターが弾けなくなっている。厳密に言うと弾けるのは弾ける。コードのガチャガチャや簡単なフレーズくらいは。ギターソロ・細かいニュアンスが壊滅的である。

ジャンルがジャンルなので妥協すれば問題ないのかもしれないが、絶望的なのはピッキングハーモニクス、これが鳴らない。私は若い頃からザック・ワイルドを神と崇め、そのスタイルを真似してきた。ポイントには必ずピッキングハーモニクスを多用するギタリストであるのに、そのピッキングハーモニクスが鳴らないのである。

原因は分かっている。首のヘルニアが悪化し右手がずっと痺れているのだ。弦にピックを持つ親指をほんの少し当てて高音を出すこの奏法、その「ほんの少し」が痺れによって感覚がない、すなわち、ハーモニクスが鳴らないのである。曲の途中、何度も鳴らそうとチャレンジしてみたが、その音は無様に間延びしていた。

別にそれくらい良いじゃんと思われるだろうが、このハーモニクスが鳴らないなら、ギタリストとしての私の個性は消えたも同然である。そう、今のバンドで私が弾く必要は無く、ギターが弾ければ誰でも良い。リアクションを封じられた出川哲朗と同じである。そんな出川を見て誰が喜ぶのか。熱々のおでんを顔面に押し付けられ苦痛に歪むその表情と絶叫が彼の真骨頂である。私の持ち味もヘヴィメタルのサウンドでありピッキングハーモニクスなのだ。

14歳の頃からずっと触っているギター。考えてみるともう30年になる。厳密には30歳で音楽を全て放棄し、生活の全てを仕事に打ち込んで、少し落ち着いた38歳くらいでまたギターを手にしたのかな?私がまたギターを弾いているらしいとどこから聞きつけたのかは不明だが、ウチで弾いてくれと打診があり私はその話に乗った。

いい年をしてバンドなどと思われるかもしれないが、10代の頃から遊んでいたクズの連中とまた、クズである私がクズの活動をするのはやはり楽しい。暴力的なその音楽とそこにいる排他的な集団は、私が存在する現実とは全く異なる世界観であり、人である。その人たちは何も言い訳せずに自分の楽しい事を何よりも優先しそして生きている。金が無い、仕事が無い、そんなものは関係ない。その強さに私は魅せられているのだ。

しかしながら私の思うギターが弾けないのなら、私がそこにいる価値など無い。ただただ甘えるだけとなる。まずは首の治療、自分の中で優先順位を上げて治す他ない。私のようなクズは、自分がクズだと認識して、クズなりに考えて、クズとして生きてゆくのだ。どうせクズなら、誰かに好かれるクズになりたい。だから私には、ギターとピッキングハーモニクスが必要なのである。

 

おくしゅり飲むにゃん(盛大に吐け)

 

 

寂しいと思ったことがただの一度もない

寂しいという感情が私には無い。一人で全く問題ない。そうやって言う人は本当の一人になったこと無いからだろと言われた事があるが、若い頃、10代の時に事情があって結構な独りになった事がある。しかしそんな事は本当は些細な出来事で、もしかしたら心を引き裂くような孤独、なんて味わった事が無いのかもしれない。しかし今まで生きてきた中で「寂しい」と思った事が無いというのは、紛れもない事実である。

私は「寂しさ ≒ 不安」であると考えていて、私は不安に思うことが殆ど何も無い。自信満々な嫌な奴と取られても仕方が無いが、ニュアンスが少し違う。どんな事が起ころうが「何とかなる」と思っているのだ。超ポジティブ。例え明日会社が倒産して数億の借金が出来て身の回り全てがボロボロになったとしても「何とかなる」と思っているし「何とかする」と思っている。これは所謂「お金」だったり「仕事」だったりの話である。

今までの生活、今の生活の殆どが「仕事」で占められているから、多分私に不安は無いし寂しさも感じないんだろう。私の思う理屈でいくと多少の寂しさはどんなものでも払拭出来る。現状の不安材料を細かく拾い上げて出来る範囲で解消してやれば良い。解決出来ない問題なんて無いと基本的に、本当にそう思っている。どうだ羨ましい程のバカだろう。ふはは。

このポジティブ思考はどこから来てるんだろうか。私は堕ちるところまで堕ちたら自分はどうなるんだろうといつも想像している。マグロ漁船か。誰かに殺されるのか。内蔵の売買か。戸籍を売り飛ばすホームレスか。なんだそんなものか。

 

「じゃあその環境で上手くやってやろう」

 

理想と現実をごっちゃにすることなんて無い。フリーターだろうがホームレスだろうが儲けてる奴ってのはどこの環境でも必ず近くにいるもんだ。私の友人でホームレス経験者ってのが結構いて、先日その当時の話を聞きながら盛り上がった。壮絶で悲惨で苦しいはずのその話を聞いて「オモロそうやなw」と言えば「オモロかったでw」と返ってくる。そいつの中ではホームレスの話はネタでしかない。

堕ちるところなんてたかが知れてるんだから恐れる事など何もない。私は堕ちることよりも諦めてしまう事の方が恐い。もうダメだなと思った瞬間、「私」が終わるんだろうなと思っている。もうダメかもしれないなぁという手前までは何度も経験したが、その都度周りの人達に私は助けられてきた。だから私も、誰かに「大丈夫だ」と手を差し伸べたい。

私は寂しいなんて思ったことがない。誰かに優しくしてもらったら誰かに優しくすれば良いのだ。ひょっとしてひょっとしたら、その輪が勝手に拡がっていけば私は「堕ちない」んじゃないか、と思ったという話。私が諦めなければ堕ちない。誰かに優しくしてれば堕ちない。堕ちなければ多分、寂しくなんかない。

 

頭髪の量は、かなり寂しい。

 

 

私はずっと怒っている

常に激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームである。ビッグバンテラおこサンシャインビーナスバベルキレキレマスターである。まぁどっちでもいい。私が何かをする時のエネルギーは常に「怒り」であるので怒っていないとモチベーションがダダ下がりするのだ。仕事のモチベーションは言うまでもなく、バンドのやる気は勿論怒りである。

え?なんでそんなに怒ってんの?と言われると返答に困るが、もう10代の頃から私は「怒るとめちゃくちゃ行動出来る」という事を認識していた。それを自身で気付くことになったのはある引越し屋でバイトしていた時の事だ。今でこそ引越し屋さんは一軒一軒綺麗な靴下でにこやかで爽やかで礼儀正しい青年が多く働いているが、我々が若い頃の引越し屋など「ヤンキーの巣窟」であった。

お客さんに失礼な態度は取らない(取っているアホもいたが)が、新人にやたら厳しいと言うか体育会系と言うかシバキ系と言うか虐め系と言うかまぁそんなものであった。私も知っててその引越し屋のバイトに入ったわけだから、多少の覚悟はしていた。家具や重たい荷物を持つのは持ち方やコツがあって、それを知らないと必要ない力を使う羽目になり疲れが倍増する。新人の私にそんな事が分かるはずもなく、すぐにバテていたが何とか毎日を過ごしていた。

ある日、私が嫌いなパイセンと言うかヤンキーとコンビになった。私より身体は小さくて、自慢話が好きなよく喋る嘘つきであった。面倒だなと思いながらその日は3軒の引越しを朝から行っていた。2軒目は比較的荷物が少ない家であったが、引越し先が賃貸マンションから新築戸建ての引越しだったのだ。新築はかなり気を遣うが段取りよく荷物が運ばれていった。

運び入れも終盤に差し掛かった頃、天板に石が貼ってあるテーブルがあり、一人では持てないので養生を取ってトラックで待っていた。一緒に運んでいる途中、室内の階段の所でヤンキーは早く行けと言わんばかりにグイグイと押してきたのである。テーブルと階段の間口はギリギリ。ちょっと待って下さいと言っているにも関わらずそのヤンキーは執拗に押してきた、その瞬間、階段のクロスを擦ったのだ。ヤバイ。ザックリだ。

ヤンキーは報告・謝罪に行ったので聞き耳を立てていると、慣れない新人の私のせいにしていた。あーコイツはクズなんだなとそこで認識し、私は何も言わずに、静かに怒った。一人では重量的に厳しい物も私は1人で運び、バテることなくそのヤンキーに「早く行けよ」的なプレッシャーを掛けながらグイグイ運んだ。休憩?アホか。お前だけ休んどけや俺運んどくから。しょうもないのう。と口にはせずとも顔や態度に出ていたと思われる。この時気付いたのだ。「あ、俺怒ってると結構頭と力が出るな」と。

仕事も、バンドも、このブログも同じだ。怒りがモチベーション。怒ってないと書けない。怒りは何も生まないという言葉をそこここでよく見かけるが、そんな事は無い。私は怒りながら色々生み出すのだ。知恵も言葉も体力も。コイツだけは絶対許さねえという負のパワーを表に出さずニコニコとしながら静かに怒る。先日Twitterでお嬢から「男の子ってずっと何かと戦ってるわよね」というコメントを貰った。そうだ。43歳のオッサンも意味もなく誰かとずっと戦っているのだ。

その闘志と諦めのバランスが崩れた時、男は堕ちるだけ堕ちてゆくのである。

 

戦えオッサン。

 

 

人の本当の優しさは口を開けて空を見てるだけでは口には入らない

と言うようなことをある人と話していて思ったのだ。「本当の優しさについて」である。ほんの小さな優しさは私もよく振りまく。相手が誰だかよく分からなくても「ガム食べますか?」「飴一つどうですか?」程度のものは自分をすり減らすものでは決してない。ただただ与えるだけの小さな優しさ。しかしながら本当の優しさというものは、優しくする方も優しくされる方も衝突して傷つかないと見えないのである。片方が本当に大切に思いながら優しく気遣っても、片方が傷つくのを恐れて立ち止まるとその優しさには気付けない。これ以上痛いのは嫌だと踵を返してしまう弱さは、相手の本当の優しさを闇に葬るのだなと思った。私はインターネッツの関係性など希薄この上ないと思っている。誰一人本当の事など書いてなんかいないと。せいぜい飴やガムのやり取りをしてれば良いじゃないか。私は本当の事を書いている!という人もいるだろう。しかしそんなもの全ては伝わらない。「書き方」と「読み方」でその文章の本当の意味はまるで正反対になるのだ。こんな、嘘と虚勢と誤解しかないインターネッツで、ただジッとしてるだけでは誰かの本当の優しさになんて触れられるはずがない。誰かと分かり合うのなんて無理だ。存在してるのかどうかすら怪しい人と薄く繋がって深く傷つけ合うのは不毛以外の何物でもない。インターネッツなんてもっといい加減で良いし、はっきり言ってどうでもいい世界だと私は思っている。誰かの本当の優しさを知りたいなら、会ってちゃんと目を見て話をして、笑ったり怒ったりするのが本来の姿であると思う。我々の居場所は現実社会である。勘違いしてはいけない。ネットの言葉だけがどこかの誰かの本心ではない。現実社会でお互いを認識し、その人の言葉を耳で聞き、その人の優しさが少し見えた時、信用が生まれる。嘘か本当かは、相手の声と、目と、仕草で、自分自身が判断すればよろしい。

 

現実社会でおっぱい揉みたい。

 

 

派閥とかテリトリーとかにあまり興味が無い

若い頃から派閥とか集合体に私はあまり興味がない。

友達が誰々の事嫌いだから俺も近寄らないとか、あのバンドはあのグループだから話さないとかそういう類の、よく分からない人間関係の動き方をしていなかった。だから友人やバンドでは結構幅広い人脈を持つことが出来た。

友人はオタクからナンパ野郎、ヤンキーやDQN、堅い職業からアングラまで、バンドに関してはパンクだけではなくロックンロールからヘヴィメタルヴィジュアル系まで仲の良い奴がいた。

今の仕事でも同じである。会社やそこの社長は嫌いだけどそこの社員とは仲がいいとか、対立している会社の両方と仲がいいなんてのはザラである。もちろん派閥で分かれている人達が大半である。そこであっち行ってゲラゲラ笑い、こっち行ってグヒャヒャと笑っているのは私だけである。

そうしながら周りの人達を見ていると、横の繋がりのない会社や人間は必ず情報が偏っている。当たり前だ。お互いに情報を隠しあっているんだもの。自分達で視野を狭くしている。これは気付かずにやっているのではなく、気付いているのに派閥や人間関係に縛られ囚われて動けないのである。

そこにあっちこっちでウロウロしてヘラヘラしている私は重宝がられるのは言うまでもない。決して情報を漏らしているわけではない。お互いに必要な話はしといた方が良いんじゃないの?的な場合の「繋ぎ」で呼ばれるのだ。誤った情報や既に決定した事項などで自社のロスをなるべく減らしたい場合の「繋ぎ」が多い。そして最新の情報が私にいつも来るという美味しい話なのだ。

ここのブログやTwitterも同じである。「誰と誰が繋がってるか」は私はどうでもいい。「私は誰と繋がりたいか」であり「私は誰と話したいか」であり「私は誰に会いたいのか」でしかない。会いたいと言われれば尚更である。断る理由は何も無い。となると情報量は数倍・数十倍となるわけだ。別に情報が欲しくてブログやTwitterをやっているわけではないが。

私の思うここインターネッツの楽しい点は「何かを知れる」という事だけだ。その情報や人間関係を派閥などで遮断する必要は私には無い。誰かといるから私から離れるというなら、離れてもらっても構わない。それで最終的に一人となるなら私の魅力などそこまでなのだ。楽しい場所を楽しい場所としてあり続けるには自分自身の動き方が左右する。

「最悪一人」を覚悟しながら、私は好きな人を増やしていくのである。

 

ずっと一人だけど。

 

 

誰の味方も出来ない

その怒りは優しさから生まれた怒りで、誰かが誰かを守ろうと必死になっているのが見て取れる。私が中学生の頃夢中になった漫画がある。言わずと知れた湘南爆走族、湘爆である。その漫画にこんな一幕がある。30年前に読んでいた漫画で朧気な記憶しかないのでご了承頂きたい。湘爆率いるリーダーの江口、地獄の軍団のリーダー権田は敵対するチームでありながら、心の中ではお互いを認め合い、チームが違えば親友になっていたんだろうなという関係性。いつも啀み合い、イタズラを仕掛けては笑い合い、嫌いだムカつくと言い合っていた。ある日事件が起きる。地獄の軍団のペーペーが誰かにシメられた。そのペーペーは言う。「湘爆にやられた」と。権田は思う。アイツがそんな事するわけないだろう。しかし話は次第に大きくなり、湘爆と地獄の軍団の対立は激化する。これ以上、事を大きくする訳にはいかないとリーダー同士のタイマンが行われる。ペーペーは嘘をついていると分かっているのに俺は仲間を信じるというスタンスの権田、自分達は何もしていないが権田の立場を全て理解して立ち向かう江口。お互いに一歩も引かずボロボロになるまで殴り合うのだ。それを見ている仲間たちは「もしかして二人とも分かってるんじゃないか…」「あの二人何で殴りあってるんだ?」「悲しいな」と声に出さずそれぞれが思う。そして権田は仲間に殴り掛かる。「お前ら何年湘爆と喧嘩してんだ!」「ふざけるな!」「なんなんだこれは!」と。最後は黙って何も言わずに別れる。誰かを守るために誰かが泣くのは見てられない。本当に悪い奴がいれば良いんだけど、こういう悲しい喧嘩には絶対悪が存在しない。優しさに牙が生えると悲しいのだ。

 

ただのヤンキーの話、湘南爆走族のレビューです。