革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

関西人である私が思うお笑いというもの

一昔前までは関西人であるというだけで「もちろん面白いんですよね?」「本当に、なんでやねん!って突っ込むんすかwww」的な関西ハラスメントを受けていたわけであるが、昨今これだけ「お笑い」というものが一般化したというか多様化したというかハードルが下がったというか、それだけ私が関東で仕事をしていても「え‼️関西から⁉️」みたいな、もの珍しいリアクションは無くなった。

テレビをつければお笑いの番組(吉本新喜劇・漫才・関西芸人がMCを取る番組)が他の地域よりもやはり多かったであろう、もっと言えば周りの大人がボケ・ツッコミを当たり前のように会話の中に取り入れたものを子供の頃から聞いていた我々を見て、噂で聞いて「関西人って全員面白いんですよね?」と言われるのは仕方のない事だとも思ったりする。

しかしながら関西人の私としては思う事が一つある。関西人でも面白くない奴は当たり前に大勢いるのだ、という事である。批判を恐れずに言うならば、ほとんどの関西人は面白くない。それは他の地域でも同じことだろう。関東でも北海道でも面白い奴は面白いし、関西だろうが九州だろうが面白くない奴は面白くないのである。例外なく私も面白い側の人間ではない。そしてその面白い奴ら、選りすぐりの猛者達がその地域関係なくお笑い芸人を目指すのだろうと私は思っている。

小さな頃からその「お笑い」が身近にある関西人として、面白い奴を見る時に2つのパターンに分かれて私の中に入ってくる。一つは言葉巧みにリズムよく適度な違和感を挟みながら笑わせようとする技術者達。もう一つはバカな事を恐れず照れずにやり切って笑わせようとする道化師達である。どちらがどうと言う話ではない。面白い人は面白いし面白くない人は面白くない。Twitterのタイムラインを眺めていたら、数人の外国人に抱えられてスーパーマンのような格好をした全裸の安村氏のGIFが突然流れてきた。そんなもの、笑うに決まってるだろう。その「お笑い」に多分、意味などないし我々もそこに意味を求めていない。

難しいことを考えながら見るお笑いなどに私は興味はないし、私が笑う時は瞬発的に笑う。オリエンタルラジオ中田氏がこれから何をやろうとしているのか私は知らないが、私はお笑いを安心して見たいのである。我々は松本人志氏に対して安心しているのだ。絶対に面白いと思いながら見ているのではなく「うわぁ‥全然おもんないやんけ‥時間無駄にして俺ごって損やん‥」と思いたくないのである。関西人特有の「損したないねん」がお笑いにもある、ということだと私は思うのだ。

中田氏を面白いと思うのか思わないのかは個人の主観であるから私はどうでも良いが、ビジネスや凝り固まったお笑い論みたいな我々一般市民に全く関係のない議論をいきなり大御所にぶっ放して業界を掻き回し「ほら、芸人同士そういうやり取りして面白くなってんでしょ?」と海外でヘラヘラしてるのを見せられているのは全くもって面白くないしこんなものはお笑いではない。

我々一般市民も暇ではないので安心して笑いたい。自身で、選んで見るテレビはちゃんと笑いたいのである。

「こんなん言われてまでやる必要ないし俺もう出んでええんちゃう?」

松本人志氏がこんな事を言い出さないよう祈るばかりである。

 

こんな私が偉そうに道徳など語れない

そんな事より「俺はこれからnoteで書くぞ」などとnoteでの更新をスッカリサッパリ忘れるくらい前に偉そうに告知していた私が何故またここはてなで書いているのか。それからまず話さねばならないだろう。

理由は簡単である。老衰による忘却、いわゆる「ボケ」が始まっている。パスワードはおろかIDすら思い出せない。私のウェブログがどこにあるかも分からない。「母さん、俺のウェブログどこにいったか知らないか?」と奥さんに聞こうにも私がインターネッツで嫌味を垂れ流している事など知らぬ奥さんにはそんな事は聞けない。

しかしながら我らがはてな、アプリを消していたにも関わらず再インストゥール、何の入力をせずともアプリをタップすればいきなりのログイン、即ログイン、え?こんな世の中でセキュリティ的なものは大丈夫そ?的なログインであったので久しぶりにここで書いている。

noteの事はもう忘れよう。ウェブログのタイトルすら思い出せない。気が向いた時にしか書かない私にとってタップアンドログインが出来るここはてなが最適なのかもしれない。セキュリティ突破されたとしてもこんなウェブログを乗っ取ったところでその乗っ取った奴の方が面白い文章が書けるに違いない。私のこんな駄文であのオシャレコンテンツに食い下がろうとするこの下心がIDとパスワードを忘却させたのだろう。まぁどっちでも良い。

さて本題、と行きたいところではあるが本題と言うほど書きたい事があるわけではない。日々他人事のようにインターネッツを眺めていると、四方八方に、様々な意見や感想が放射線状に飛び散っている。何が正解なのか、その正解は生きにくさを加速させるのではないか、などと考えながら自分には関係ないと次へ次へとスクロールさせる。ガチガチにルールを守る必要などない。そこに線あるやろ、ちょっと足先出るくらいかめへんやろ、出んようにするさかいに。その線がどこに、何があるのか、が私は重要だと思っているのである。それは知識でしかない。その線を知るためにインターネッツを眺めているとそういうわけである。昨今様々な、赤外線のような線がそこら中に、縦横無尽に、ミッションインポッシブル的に触れてはいけない線がポッシプルされている。触れてしまったなら素直に謝れば良い。細かすぎるほどに張り巡らせたその線に絶対触れないなど不可能である。

あ‼️ごめん‼️ちょっと触ってしもた‼️そうやってちゃんと謝って許してもらうには愛嬌が必須である。私は今日もアンパンマンのような丸い顔でニコニコしながら何かしらの線を触っている。ふと横を見るとマトリックスのキアヌリーブスのようにのけ反りながら不機嫌な顔をして歩いてる人もいる。やり方は人それぞれである。そんな考え方の私に道徳的な話をする資格などないな、と思いながら今千葉の車中でミルクチョコデニッシュを頬張っている。

こんな中年のウェブログを最後まで読んでくれた諸君には申し訳ないが私のウェブログに意味など無い。ウェブログやトゥイッターは私の心の中の言葉である。心の中の言葉に意味や主張は無い。ただただダラダラとフワフワと言葉同士がくっついたり離れたりしてるのをここに書き出しているだけだ。たった一つ意味のある思考があるのだとすれば、今ここのコンビニでウンコした方が良いのかどうか、1時間半イケるのかオイとそれだけである。漢である私はヒヨらずにこのまま高速に乗ろうと思っている。サヨウナラ。

 

 

猫と食う寝る遊ぶ

みなさんお元気ですかぁ〜。古いですね。私がまだ青い果実の時代に井上陽水が日産セフィーロのCMでウィンドウを開けながら我々一般人に挨拶をしていました。いつ頃のCMなのか調べてみると1988年、30年以上前のようです。恐ろしいですね。計算すると私が14歳の頃。友人にブルーハーツを聴かされて衝撃を受け「俺はこんなままで…良いのか…!」と自問自答していた頃です。中2ですね。

考えてみると私の中身などは未だに中2です。ご愁傷様です。こんなオッサンになっても「今に見てろよこのクソ野郎」的な事を腹の中に秘めながら仕事をしているわけですから、中身なんてそうそう変わるものではありませんね。顔は笑いながら怒る竹中直人を見ると「私のようだな」といつも思いますわね。相変わらず滑稽なオッサンだ。

そんなこんなで毎日を仕事で消費し疲れて家に帰るとそこに猫がいる。自身の手をクロスさせた可愛い脚を枕にしてそこに顎を置き、目だけで私を見上げる。その目に感情は感じない。大好きだとも大嫌いだとも主張しないその目はずっと私を追う。私が手を伸ばすとその不恰好な私の手の匂いを嗅ぎ、そしてゴロゴロと喉を鳴らしながら手の中に頭を突っ込んでくる。

遊ぶと言ってもおもちゃがあまり無いので派手な遊びは出来ない。一通り撫でる行為に飽きた猫は私の手を甘噛みしてくる。リズミカルに後ろ脚でトントントンと私の手を弾きながら、私の手を前脚で抱き寄せながらハムハムと甘噛みしている。徐々にエキサイティングしてくると爪を立て、必死な顔をしながら私の手をハムハムする。猫のその目に感情は無い。

疲れた猫は私の横で腹を見せながら横たわった。喉が渇いた私が台所に立つと「ニャア」と鳴いて私の足元に来る。まだ産まれて4ヶ月の猫のご飯は、カリカリをお湯でふやかせたものだ。飯をくれとせがんでいる。いつまでお湯でふやかせたカリカリをあげるんだろうな、と考えながらお湯を沸かす。猫専用のお皿にカリカリを出すとその音でまた猫は興奮する。ニャアと鳴く。ふやかせるのに少しの時間が必要なので私は家の外に出て煙草を吸う。吸い終わる時間が猫のご飯タイムだ。私を見上げる猫。その目に感情は無い。さぁ食べろ。

食べ終わると脚をペロペロと舐めながら毛繕いを始める。顔をゴシゴシと擦りながら、全身の毛を丁寧に舐めている。「猫の舌のザラザラはクシのような役割をしている」というような事を聞いたことがあるなぁ、とそんな事を考えながらジッとその様子を眺めている。一通り作業が終わると、お気に入りの、いつものフワフワのクッションに移動する猫。前脚を自分の胸に折り返して目を瞑る猫。私は風呂に入るよ。ゆっくりしといてくれよ猫。私が立ち上がるとまた私を見上げる猫。その目に感情は無い。

私が風呂からあがろうと扉を開けるとそこに猫はいた。待っててくれたのか。トイレに行くときも扉の向こうで私を待つ猫。元気に走り回って遊ぶ時に三角跳びの踏み台に私の肩を使う猫。私がスマホを見ながら横になっているのにまるで私など居ないかのように私の身体や顔の上を踏みつけて横切る猫。向こうの方からブワーッと走ってきて私の顔の前でピタッと止まり「チュ」とキスしてプイとどこかに行く猫。振り返ればそこにいる猫。

私は猫にどうして欲しいということなどなく、猫も私に何かをして欲しいでもない。ただ猫はいつも私を見ていて、見られている私はどこか見られていることに安心しているのである。可愛いからコノコノコノコノコノコノ‼️と猫の顔にチュウをするのだが嫌がるでもなくジッと目を閉じて私のチュウが終わるのを待っている猫。終わるとスタスタと定位置について薄目で私を見る猫。

そこに居るだけで私は安心し、そして護られているのは私では無いか、などと考えながら、明日も猫と食って寝て遊ぶのである。

 

猫かわいい。

 

 

サラリーマンをほとんどした事が無いから逆に不安が無い

私サラリーマンというのをあまりした事ないんですよね。20代はイベント系のパネル設営のバイト、後半は家具屋さんでバイト、30歳でサラリーマンになるも2年弱くらいで倒産、次にその倒産した社員で新しく立ち上げた会社の社長が一年弱で「社長やめたい。」とか言い出して社員全員で「はぁあ???」みたいな感じで「んじゃ誰やんのよ」と話し合った結果全員が私を見て「わべ一択ね」といきなり社長やらされてですね。と言ってもオーナーがいたから雇われ社長というやつです。まぁこれが地獄でですね。これもサラリーマンみたいなもんですが借金やら未払い保険料を私に被せて来ようとする輩オーナーと喧嘩して独立、今に至るという感じですね。サラリーマンを体験したのは3〜4年というところでしょうか。なので何事もなく与えられた仕事をこなせば来月定額の給料が入る、みたいなのは今までほとんどなかったわけですね。バイト時代は頑張って管理まで上り詰めて「来月金要るな…」と思えば長く働いて給料増やしてましたし、独立して仕事が無く売り上げが無ければ私の給料も無いと。ゼロですね。ZERO。ZE〜RO〜。極悪ブラック企業からの雇われ社長では手取りの給料が15万くらいでしたけど不動産系の副業してそこそこ稼いでましたね。まぁここまで適当に生きてきた私が言えるのは「やろうと思えばなんとかなる」という事なんですね。「やろうと思えば」というところがミソなんですけどね。絶望なんてしないですね。とりあえず「なんとかなる」と思ってるので。今の私が何もかも失った場合、この年でどうなるんだろうな〜なんて事をたまに考えるんですけどね。地べたから這い上がる方法とかメンタルの作り方はもう大体分かってるのであまり心配してないですね。40代50代で一から始めるのはキツい、なんてよく聞きますけどね。なんとかなるんですよね。なんとかなると思って私は動くので。決まった方法なんて無いです。環境で私を取り巻く状況は変わりますものね。でも大丈夫ですよ。絶対に大丈夫だ、と思いながら私は動くので。私ではどうにもならないのはただ一つ「健康」ですよ。身体と頭が動けば何も心配することはない。大丈夫だ。何も問題ない。そう思いながら昨日も一時間半、サンドバッグを殴り倒し、連続ミット打ちで吐きそうになりながら身体の中の悪いものを絞り出して、目の前に居座る沢山の困難と睨めっこするわけです。

皆様もコロナに気をつけて下さいね。

大丈夫。問題ない。

 

早く大人になりたい

www.youtube.com

www.youtube.com

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新聞や本なんてものを手に取らないバカを絵に描いたような私の10代の頃の「情報」はテレビしか無くて、それも好んで見ていたテレビは、夜中に放送している大人達が好きな事を好きに喋る番組をよく見ていた。いつしか私の中の「大人」のイメージや色はこれらの色で彩られ、そして私もこれらに近づくものだと勝手に思っていた。

あの頃から数十年経った今YouTubeなる便利なものが当たり前となり、そこで私の好きなものを検索する。最近流行っているもの、皆が喜んで見ているものにはやはり興味が薄く、その私の「神経の波」みたいなものに沿う、というかその波長にピタリと合わずともそれに近いものでないとストレスになるらしい。となると上記のような動画をどうしても選んで、好んで見ているということになる。

別に今を否定しているわけでも昔を肯定しているわけでもない。昔のテレビが今より優れていると思っているわけでもない。ここに出ている人達の言葉や話し方や表現が私は好きで、広い視野とか考える過程とかその人の中にある想いであったりが垣間見えるテレビが私は好きだったのだ。ガチャポンのように、無駄なものは全て排除された、効率化されてすぐ目の前に出る「ほら!面白いでしょう!」に私は興味が湧かないのである。

この手の動画を見ていると、気づく事が一つある。動画の中の人達はあの頃のままであるが、私は確実に年を重ねている。あの頃私が思っていた「大人」達に私はどんどん近づいているのである。私はこの人達のような素敵な大人になれているのだろうか。この人達のような知識や教養が今の私にあるんだろうか。答えはNOだ。全然ダメだ。まだまだ色んな経験を積んで色んな失敗をして怪我をして仲間とバカ笑いをしながら勉強をしてさらに深みを出さねばならぬ。

もっと「今」に興味を持たねばならない。Twitterのタイムラインに流れてくる新しいコンテンツや新しい価値観を眺めながら、今日も古い動画に切り替えて「ビートたけしの横に座ってる岸木加世子ごって可愛いやん」とひとりごちた。

 

 

蜘蛛

私が東京でゴソゴソと活動するようになって何年くらいになるだろうか。考えてみると新宿のボロいマンスリーマンションで約1年、秋葉原で1年と、併せて2年経つか経たないかくらいではないだろうか。東京をウロウロするようになった当初は建物の高さと人の多さに戸惑い、会社の規模や活動的な層が大阪とは3ステージほど違うな、と思ったものである。毎日新しい人と名刺を交わし、私が何者であるかを表情豊かに、手振り身振りで説明をし、私がそばに居る事であなたの力がより強力なものになる、あなたの会社でより利益を出すことが出来ると、誰も触らないごく僅かな隙間に私のアイデアを流し込む。おかげさまでここ東京でも私の名前が少しだけ浸透するようになってきた。情報が集中する東京で名前が上がると地方からの依頼が増える。東北や中部地方からも声を掛けてもらえて有難い限りである。自分でも思う私の長所は「調子に乗らないこと」だ。初心を忘れずとまでは行かないが、強引な営業はせずとも私がしっかりと製品を理解し、相手が欲するものをしっかりと握ることが出来れば売ろうとせずとも買ってもらえるのだ。クレクレと自分が欲しいものだけを要求し、その強引さと分厚いツラの皮を自分の能力だと恥ずかしげもなくプレゼンするような輩は私の周りにはもういない。そう、順風満帆だ、と言いたいところではあるが、いかんせん忙しすぎる。「おで、だいじょうぶなの?」とバカみたいな喋り方をした私が脳内で独り言つ。秋葉原の部屋で缶ビールを空け、胃の中へ一気に流し込んだ後ベッドに横たわり、天井を見上げる。そこに一匹の蜘蛛。1cmくらいだろうか。そういえば何ヶ月か前にも見たな。私が現場に行って部屋に居ない日もコイツはここに居るんだろうな。ボーッとその蜘蛛を目で追っていると、天井、カーテン、掛け布団へと移動し、最後に私の足へピョンと飛び乗った。蜘蛛から見た私は何者なんだろうか。何者でもない。ただ大きくてゆっくりと動く生き物。警戒もせず私の足をちょこちょこと移動する蜘蛛。無機質な関係性がお互い心地よいので放っておこうか。私は蜘蛛のために何かが出来るだろうか、出来ねえわな、と思いながら手を近づけるとピョンとまたどこかに移動した。私とこの蜘蛛はただ相手がそこにいる、という認識だけをし、警戒するでも信頼するでもなくここに存在する。あの蜘蛛はいつまでいるのかなと思いながら私はポケモンGOのアプリを立ち上げ、まだギラティナに逃げられてイライラするのである。

 

ブロガーバトン

mari12.hatenablog.com

 

さて、私のような薄気味悪いブログにもバトンなるものを渡してくださる優しい方がいらっしゃるので答えておきたいと思う。私の情報など知りたい人がいるのかと甚だ疑問ではあるが、世の中というものは見てはいけないと言われるもの、仄暗い洞穴の奥を覗きたいという好奇心や、自らは別に見る必要のない残虐なホラー、そして、こら!あの子と遊んじゃダメって言ってるでしょ!とお母さんに怒られても薄気味悪くて不気味で根暗なアイツが少しだけ気になる、といった事が1/8192くらいの確率ではあると思うので書いてみたい。私のことが嫌いな奴は遠慮なく引き返してくれ。何やらシートのようなものがあるようだが私にその手の画像処理能力はない。悪しからずご了承頂きたい。

 

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★ アイコン

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マリさんの親友 id:elve 氏が描いてくれたものである。私はブログの題名や名前に執着が無いため飽きたら名前を変えるという訳の分からないことを繰り返しており、その時にアイコンとして使っていたブタゴリラの拾い画像を見かねて描いて下さった。私の顔面はこのキャッチーでキュートな顔面そのものなので、まだ私を見たことない人が私と待ち合わせするならば、この画像を頼りに探して頂きたい。

 

★名前

わべ

ブログを始めた当初は「サマンサ田端」とか「おちょい」とか「影」とか「ネバダ臭」とかなんかそんな感じで名乗っていた気がする。名前を変えるたび優しい周りの人たちはその名前で呼んでくださるが当の本人は自分の事を呼んでいると気付かないという天然のファインプレーを常時していた。

 

★年齢

45歳(今年46歳)

 

★ブログ歴

前のブログを一度消しているので曖昧ではあるが、丸3年経ったなぁ的な記事を更新してそのブログを閉鎖、そしてこのブログが3年弱なのでもうすぐはてなに6年くらいいるんではなかろうか。インターネッツでの成長は全くみられない。

 

★2020年8月16日現在総記事数

182(前のブログは分からん)

 

★更新頻度

新幹線で移動中に気が向いたら書く。

 

★ブログのジャンル

と言われても私には分からん。私の心の中。

 

★ブログを始めたきっかけ

当時、アフィブログなるものがあると何かで見て「私の文章は金に変えると幾らになるんだろう」と 初めてみたは良いが年間のはてなPro代がペイする程度だったので辞めた。

 

★今後のブログの野望

野望は別にこれと言って無いが、インターネッツでやってみたい事やアイデアはあるので時間が作れればやってみたい。

 

★ひとこと

生きる!

 

★一番古い記事

punkrockers.hatenadiary.com

 

前のブログから転生した記事が古い記事のようだ。この頃はまだ他のブロガーとポカポカ殴り合いをしていた時期であるが、今はもうそんなガラ悪いブロガーはいないようである。「あの頃は言及とか喧嘩とか何やかんやで楽しかったなぁ!」なんて言っているブロガーが多い中、私は本気で腹立つとか嫌いな奴としか言及でやり合っていなかったので、楽しかったような思い出はない。

 

★お気に入りの記事

お爺ちゃんなので内容の似た記事が多い。

 

★バトンを回したい人

www.cobalog.com

 

どうせならこういうバトンとかあまりやらない、やってるのあんまり見ない人へ渡そうと思う。コバやんである。私のような薄気味悪いオッサンブロガーは、とにかく男ブロガーが全く寄り付かない中、このオッサンだけはブログを立ち上げた最初の頃からとにかくブコメやスターをくれていた。こういった人達がいたからブスブスと燻った火が消えないで思い出したかのように今でもブログを書くことが出来ているのであろう。暇な時にこのバトン記事を書いてくれれば幸いである。

このバトンに関して、皆簡単に書いていたので私は逆にこれまたしつこくクドいものを書いてやろうと挑戦した結果、当たり前のようにクドいバトンとなった。こんなクドくて気持ち悪い文章をよくここまで読んでくれたものだ。臭いけど慣れると旨い、好きな人は好き、私は納豆のようにネバネバでどこかの誰かがクセになるような何かを書ければ良いなと、思い出したようにはてなブログのアプリを立ち上げるのである。