革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

吾輩はDQNである

吾輩はDQNである。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で何見てんだコノヤロウと喚いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてインターネッツ住人というものを見た。しかもあとで聞くとそれは古参という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この古参というのは時々我々を捕つかまえて煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて古参の顔を見たのがいわゆるインターネッツ住人というものの見始みはじめであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。

 

 普通かDQNかと問われれば、多分私はDQN寄りに属するのだろうと自覚している。建設業という仕事柄、職人とオラオラと現場を渡り歩くには大人しい性格では務まらないし現場が回らない。そしてやはりいきなりそういった属性になったわけではなく、今までそういう環境で生きてきたというものが大きいと思う。昔を思い出すと、ここでは書けない遊びやイタズラで友人同士、先輩後輩で盛り上がったものである。あんな事やこんな事、当時の「じゃれ合い」を書けば今のご時世、すぐさま「それはいじめだ」「人権侵害だ」と炎上する事だろう。そんな事を今更書くつもりはない。分かりやすいものだと「肩パン」「ジョイ(モモカツ)」「ヘッドロック」「本気デコピン」「本気シッペ」「本気電気アンマ」「本気胴上げ落とし」など、もっと酷い事をしていたが、くだらない事で炎上してもアホくさいので書くのは控える。こういった「遊び」は今では「やられた方の声」や「それを見ている人の見え方」によりいじめと認定される場合が多いようだ。

 

それぞれの「面白い」事

 

今がどうなのかは私は知らないが、私が幼い・若い頃は「大人しい子」に対してそんな事はしなかった。いつでもやったりやられたりでゲラゲラ笑っていた。ケンちゃんにデコピンをされるとオデコがボコボコになるほどだ。それを見てゲラゲラ笑う我々。もちろん私も千本ノックと称して10人くらいからノックを受けるといった事をやられて笑い転げていた。しかしどうだろう。私が10人からノックを受けてボールをぶつけられている様をそういう事が嫌いな人が見た場合、それはたちまちいじめとなる可能性がある。違う。私は「やられていても」も面白いのだ。その「面白さ」を他人に押し付けるとこれまたややこしい話になるわけだが、基本的に「そういう事が面白い連中」で集まってギャーギャーやってるのである。その時にそう思うか、面白いとは何か、はそれぞれの主観となるため、嫌なら離れれば良い。そこで嫌がる人間に執拗にそういう行為を繰り返せば「いじめ」になるのだと私は思う。

 

それぞれの「面白い」事

 

インターネッツに話を戻す。絶賛炎上中の某記事のブコメにこういうものがあった。「死体蹴り、大好きなんだが」というものだ。はてなを2年も見ていると、特別この発言に驚きもしないが、この人にとって死体蹴りは「面白い事」なんだなぁという発見があった。そして私は単純に面白いと思わない。上記DQNの話と同じである。ここでもうすでにすれ違っているのだ。感覚が違う。しかし、こういった古参の方達が歩んできたインターネッツの様々な体験を私もしていたらどうだろうか。多分面白いと感じるのではないか。否、何が面白いんだろうと思っていた可能性もある。経験していないのでやはり分からない。私はインターネッツの事をまだよく分かっていない。しかし古参と新参の「インターネッツの面白さ」が全く異なるのは見ていて分かる。古参の「面白い感覚」が我々新参が理解出来れば、ドギツイ手斧を交わすことが出来るしジョークをジョークとして受ける事が出来る。逆に新参の「面白い感覚」を古参が理解できれば新しい発見もあるかもしれない。

 

そんな事を考えながら、今日も手斧の投げ合いをお茶飲みながら見ているのである。

 

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