革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

神が私に与える縁

分かり合えない人と無理に分かり合おうとする必要なんてない。こんなものはどうやったって噛み合わない。分かり合いたいのに分かり合えないのも同様。ここに正解不正解は無い。誰かと議論になった場合に反対意見を排除しろと言う話では決してないのでご理解を。相手が正反対の意見を言ってきた時、私「は」どんな姿勢でその話を聞いているか、という話である。

私が繋がっていたいと思う相手には、私は相手の話を理解しようとするし共通認識を探す、所謂落とし所を探そうとする。それでもダメな場合、それすら私がしない相手とは切れても構わないと常日頃思っているのだ。もうこれは私の感覚でしかないし、少々スビリチュアル的な匂いがして私はあまり好きではないが、何か引き合わせるものがもしあるならば、双方がお互いを「許す」という感情を生もうとする、なんて思っている。それが「縁」なのではないか。

どうでもいい相手、嫌いな相手の反対意見など私は聞きたくない。だってそこには愛が無いもの。相手をバカにしたような発言をする人間の話に私の心を動かす言葉など無い。「何か好き」「何か嫌い」という直感がその全てではないが、私は好きな人・繋がっていたい人の反対意見が聞きたい。双方相手の話を聞こうとする姿勢で行うディスカッションでは気付くことが多いし、また自分の考えの反省もする。例え正反対の意見でも、私は誰かの話で感動したいのである。

少し前、どうやっても嫌われてんだろうなぁと思う相手から「ご飯行こうよ」と誘いがあった。私は嬉しかった。好きとか嫌いとかそういう話ではない。あー、この人とは縁があったんだなぁと思った。縁なんてものは自身でコントロール出来るものじゃない。引き合せるもの、その時の環境、その時の感情、印象全てが混じった結果、私の周りに人がいるのだ。

ブログでもTwitterでも現実社会でも、私は毎日知らない人と「どうもはじめまして」と挨拶をしている。その縁が長く続くのかその日だけで終わるのかは神のみぞ知る。会う人は会うし会わない人は会わない。続く人は続くし続かない人は続かない。ずっと友達でいて下さいと土下座したところで離れる人は離れるのだ。そんな不安定なものに私は神経を使わないしそこは神に委ねる。私は追わないし逃げもしない。

「ふーん」と思うのも「繋がっていたい」と思うのも直感であり縁。私はその直感や縁を信じて、今日もどこかの誰かと「はじめまして」を繰り返すのである。そしてこんな薄気味悪いブログを読んでくれている方たちには感謝しかない。これもまた縁。もし機会があるならばお会いしましょう。

 

ププッピドゥ♡