愛を求めて彷徨うオッサン
さて昨今周囲を見回すと愛され女子ならぬ愛されオッサンをよく目にする。オッサンが愛されたいだと?何を言ってるんだお前はと思われるだろうが、確かにそれは現実に多く存在する。もっと見て欲しいオッサン、もの悲しいオッサン、寂しくすると死んじゃうオッサンとその形態は様々であるが、目の奥にそっと潜む殺気すら感じる光を見てしまうと同じオッサンである私ですら怖じけずいてその動きを止めてしまう。記憶に新しいのは新潟県知事である。結果として狂おしい程にドライなJDに情報をキャッチ&リークされて買春となってしまったわけだが、愛されたいが故の行動なんだろうなと若干ではあるが哀愁を感じた。しかしながら、素敵な出会いをご提供と銘打っているあの手の出合い系サイトが売春の温床であるのは暗黙の了解、金を払わずに「愛が欲しい」などとケンシロウのように囁けば出会い系女子に扮した「嬢」の後ろにはバキバキにキマったアミバが鎮座している事だろう。「遊び」と「愛」は同じ場所にはない。オッサンが愛されるにはどうしたら良いのだろうか。検証していきたい。
はにかむオッサン
書いていて吐き気がするし死ねばいいのにと思ったのでこれはダメだろう。
欲しがるオッサン
何を?と若干イラっとした。これもダメだ。
幼児化するオッサン
オッサンに可愛いは作れない。やめた方が良い。
荒ぶるオッサン
恐い。
甘えるオッサン
供給過多である。そもそも需要が無い。
励ますオッサン
禿げますオッサン。
泣くオッサン
男のくせに泣くんじゃない。
喜ぶオッサン
もはや何してもダメなんじゃないかと錯覚してきた。
どうだろうか。様々な愛されオッサンを検証してみたがどれもしっくりこないし気持ち悪い。で、あれば我々オッサンは何も作る必要などないのではないか。
ありのままのオッサン
キモい。
私が接していて「あーこの人良いオッサンだなぁ」と思うオッサンは自分を大きく見せないオッサンである。所謂謙虚なオッサンだ。良く見せようとせずとも人はちゃんと見ている。良いことも悪いことも我々は見られているのだ。その積み重ねが今の自分。で、あれば誰かに優しくしたいし困っていれば助けてあげたい。見てくれはどうでもいい。その優しさが戦略的でも構わない。誰かが見ている前提でも優しさには変わりない。そう、私は腹黒くてヤラシイオッサンであり続けるのだ。