革ジャン⇔スーツ

毒は持っていません。毒と感じるのはあなたの感性。

ブログなんてただの心の中の言葉だろう

何故私には仕事が無いのか。そんな事を毎日考えている。先ほど来社した他メーカーの営業は「もうこれ以上仕事なんか要らない。300万ぐらいの仕事など見積もりすらしたくない。」と、嘆くフリをした。どこか勝ち誇った顔をしながら。私は何でも手伝いますから、どんな小さな仕事でも弊社に振ってほしい、丸投げでも構わないからと頭を下げた。その営業マンは「仕事の振り方を考えてみる」と言ったまま、その後の連絡は無かった。心の奥底では、そりゃそうだと理解はしている。私が出来るかどうか、など相手には関係ない。相手が「出来そうだ」と思っているか「無理そうだな」と思っているか、であるから。仕事はどんよりと曇った空から、これでもかと我々には向かって降り注いでいるのに、私はそれを掴むことが出来ない。不景気といえど工事の仕事が無くなるなんてことは無い。オーナーから建設会社へと発注があり、どんどん下請けに仕事が流れていくのを私は見ているだけであり、蚊帳の外からどれだけ大声で「やらせて欲しい」と叫んでも「どうせ駄目だろう」と、言わずとも、彼らは私にそんな口の動きを見せた。仕事を取る方法、やり方は分かっているしそして簡単だ。その方法は二つ。説明出来ないことを誤魔化して売ること、他社と同じものをより安く売ること、この二つである。やりたくない。正義感ではない。こんな仕事は面白くない。誰でも出来るじゃないか。私でなくても良いじゃないか。金が無い。やりたくない。みんなで渡れば怖くない、あの赤信号を、私は渡るのか。金が無い。暇は幾らでもある。Facebookを覗く。みんなキラキラしている。金が無い。さて、どうするかな。私が「買ってくれ」「仕事をくれ」と言わなくても、相手から「買いたい」「仕事をお願いしたい」と言ってもらえる方法。とにかく実績だな。喜んでもらおう。私が考えている方法で、私にしか出来ない仕事を。それが出来るまでは、私の身体を金に変えれば良い。土方でも掃除でも何でも。そして掃除をした。毎日どこかで私は掃除をした。みんなキラキラしてるなぁ。ふはは。私はドロドロだなぁ。まぁ、そりゃそうだな。ふはは。そしてある場所で私は感謝された。誰もやりたがらないこの仕事をやってくれてありがとうと。そしてそこで困っている事を沢山聞いた。私は、そんなのこうやれば改善出来るよと教えてあげた。喜んでくれた。また相談された。教えてあげた。

「わべさんこういうのってどうやれば良いの?」

「わべさんこういうの探してるんだけど知ってる?」

「わべさんこれもお願いしたいんだけど出来ますか?」

出来ないことは出来ないとその理由を添えて断った。そしてそれが出来る業者を紹介してあげた。業者に感謝された。業者は私の事を詳しく知りたがった。そして私を誰かに会わせたがった。起きている間はずっと考えた。夢の中でも私は考えていた。お客さんが困っているその何かを改善する方法。もしかすると私が考えている事を形に出来るかもしれないと他社に相談した。面白そうだと笑いながら握手をした。私には何もない。私は何もすごくない。私の周りの人達がすごいのだ。私は目の前で起こっているお客さんの「困った」を拾い上げ、少しの知識と少しの発想ですごい人達を集め、そのすごい人達に形にしてもらう。あとはお客さんも含め周りの全ての人達に利益が出るよう煮詰めるだけ。出来るだけ多くの利益を自社のみが死守する時代ではもうないのではないか。私は平気で「御社がやった方がお客さんの利益になるから」と仕事を投げる。私だけ儲かっても面白くない。今ある金が全て消え去っても何も問題ない。元々金なんか私には無い。私は今でも現場にいる。お客さんの「困った」がそこにあるから。会議室にお客さんの「困った」など無い。そして会議室にずっといる連中はお客さんの「困った」に興味が無い。これ幸い。お前らはずっと会議室に篭ってろ。仕事が好きなんでしょとよく言われる。私は仕事が好きなのかなぁ。我々のアイディアで誰かの負担が軽くなるのが面白い。結果としてお金が貰えればなお良い。私は仕事が好きなのかなぁ。仕事があるのかお金を貰えるのかなんて私が決める事じゃない。お金なんかあっても無くてもいい。やれる事をやらずに文句を言いながら、夕刊フジを読みながら老いぼれてくのはゴメンだ。私は今日も現場で、カップラーメンを啜りながら、職人とゲスい話をしながら笑っているのだ。それを仕事好きと言うのなら、私は仕事が好きなんだろう。