亡霊の戯言

どんな理由があれど悪は悪。価値観?知るかそんなもん。

気付けば私はウェブの文章をもうそのまま読まなくなった

某巨大掲示板の人は言った。「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」と。インターネッツに詳しくない私はその目と脳にフィルターをかける。どこか上の空で誰かの話に聞き耳を立て、その話を話半分に聞きながら適当な相槌を打っている気分だ。その情報や話が確かな情報なのか嘘なのかを調べる知識も技術も私には無い。それが嘘か本当かを調べるには、嘘と本当が混在するGoogleの箱をまたひっくり返すしか方法は無い。

となると、私はこのインターネッツに嘘か本当かの判断など必要ないのではないかと思ってしまう。どっちにしろ私には正解が分からない。この人「本当は」何を言ってるんだろうと裏を読みながら見ていると疲れるのだ。「花が綺麗だ」と書いてあるなら「花が綺麗」なんだろう。「好きだ」と書いてあるなら多分「好き」なんだ。私はいつしか「本当は」どう思ってるんだろうか、この表現の裏には何が隠されてるんだろうと考えながら読むようになってしまった。

私がそうやって読むのだから、私の話もそうやって読まれてるのだ。私がここで書いているのは別に誰かに何かを伝えたい訳ではなく、有益な情報を発信している訳でもない。ただただ思ったことを書いて放流している。だから嘘も本当も無い。嘘をつこうとは思っていないし真実を訴えたいわけでもない。嘘でも本当でもない。ただの私の心の中なのだ。今その時はそう思っているけど明日には変わっているかもしれない。今日は叩くけど明日擁護するかもしれない。

要するに結論はインターネッツでの話などハッキリ言って私はどっちでも良いのだ。その時楽しく読めればそれで良いし、それが例え嘘でもパクリでも私がその時「おお、そうか」と消化出来るなら腹も立たないし問題ない。全くの嘘は私自身で判断出来るわけだしね。どっちか分からないものはどっちでも良いのである。100%正しい事など世の中そんなに沢山あるんだろうか。正義やら悪やらは各人の主観とその似た者同士の集合体。であれば「何が正解か」は問題ではなく「私はどう思うのか」が大事なんだと思うわけだ。

インターネッツなどどっちでもいい。我々がちゃんと生きているのは現実社会であり、正解や不正解、成功や失敗、嘘や本当が経験値として積み上がるのはこのリアルの空間だけである。しかしながらこんなどっちでもいい世界で稀に見つけることが出来る素晴らしい考え方や文章。私も何度目から鱗が落ちた事だろう。それが嘘かどうかなどどっちでもいい。私の中で積み上がった経験値がその言葉や考え方を消化し、身体の中で形を変える。これらが「真実か嘘」のどちらかに変わるのは、その発信者に会って顔を合わせて話をしたその時である。私の経験値が「嘘」か「本当」かどちらかに振り分けるのである。

であるからして、ここにいる私も即ち「どっちでもいい」のである。ハゲてるのかデブなのか、早漏なのか変態なのか、大わき毛なのかパイパンなのかは「どっちでもいい」のだ。ただ一つだけ、ここに私の真実があるのなら「おっぱい揉みたい」という思想。

 

真実はそれだけである。