何者かになりたいと願っても何者でもないから何者にもなれない
と私は常々思っていて、ブログ論やらブログのテクニックについて私は全く興味が無い。面白ければ読まれるだろうし面白くなければ読まれない。今私のブログにアクセスが無いのは検索エンジンやら見た目やら書き方のテクニックではなく、単純に面白くないから読まれないのである。しかしながら自分でも独特の空気感なるものは作れていると思っているのでその他大勢に読まれなくともまぁ良いか、てなもんである。読まれたい症候群になると毒や棘が無くなって、この不穏で薄暗い埃っぽさや泥臭さのようなものが薄れるのでこのまま「ヤな感じ」で継続していきたい。こんな私でも仲良くしてくれる神のようなブロガーさん達が少数ではあるが存在し「あれ誰のこと書いてるの?」とよく聞かれる。答えは簡単である。誰のことも書いていない。ニュースやら増田やら誰かの記事を読んで「ふと思ったこと」をテーマに文章を組み立てて、組上がれば書いて更新するし組み上がらなければ更新しない。だから私の下書きフォルダには「組み上がらなかった屍のような記事」がバカみたいに数多く並んでいるのだ。ほぼ書き上がってるのに最後上手く締まらないだけで放置するのも勿体ないなぁなんてたまに見返すが屍になった記事は息を吹き返さない。私が書く記事など8割は嘘っぱちで小粋なアメリカンジョークなわけだが、それが嘘かどうかなんて読んでる人も私も関係ない。信じるならそうなんだろうし嘘だと思うなら嘘なんだろう。私が良い人なのかクズ野郎なのかは読んでる人が判断するのであって私も良い人ぶるつもりはない。私が読むブログも同じである。良い人とされるブロガーの「厭らしい部分」を見つけたり、逆に嫌な奴ブロガーの「優しい部分」を見るのが私は好きなのだ。何が真実かなんてどうでもいい。このブログで形作っている「私」が実際に存在するのかどうかすら怪しいこのインターネッツの世界で、あわよくば何者かになろうなんてそんな烏滸がましいことは思っていないし何者かになれるなら「もうなっている」だろう。ここでそんな夢をみるくらいなら小さな「面白いこと」を見つけてほくそ笑んでいるのが私にはちょうどいい。
昨日奥さんのおっぱいを人差し指でフニフニしたら怒られたのでこんなにおどろおどろしい文章になってしまった。無念である。