亡霊の戯言

どんな理由があれど悪は悪。価値観?知るかそんなもん。

私は自分の目の前にある「カッコイイもの」を誤魔化したくない

こんな年になってもパンクとかハードコアみたいなある種絶滅危惧的なジャンルで絶滅GIGを繰り返している私はある悩ましい現実をいつも突き付けられている。より長く、より古くから活動している人達(新しい血が流れていない証)の全てを私はカッコイイとは思わない。大体のそれが古き良き時代を象徴するかのような曲調、スタイル、ガバメントに対するシャウトor嘔吐であったりするのだ。周囲を見回してみると「カッコ(・∀・)イイ!!」が溢れているわけだが、私はどうも心の底からカッコイイとは思わないのだ。それは何故か。私が思う「カッコイイ」は、単純に誰が見ても知らない人が見ても「カッコイイもの」でなければならない。最近私が「カッコイイ」なと思ったのはたまたまYouTubeで見つけた加藤茶である。

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その人のルーツやジャンル、過去の栄光など私が感じる「カッコイイ」には関係ない。カッコイイものはその時その瞬間に感じるものであり、いくら有名だろうがその世界で古参だろうがそんなものは関係ない。私がカッコイイと信じ感じるものを吸収して、私のフィルターを通してアウトプットするしかない。パンクはこうでなければいけないなんてものなどクソ喰らえなのである。反体制の奴らが集まって体制を作りその空気に慣れ合っているのを見ると距離を置きたくなる。これは理屈じゃない。カッコイイ奴らはEの音をバーン!!!と出すだけでカッコイイのだ。

私が思うここブログも同じである。読者数やらPV、古参新参などハッキリ言ってどうでも良い。ジャンルやスタイルなんてものはハリボテでしかない。ブロガー同士で体制を作ろうと必死にチュッチュチュッチュしてるのを見かけると私は醒めるのである。目の前でカッコイイとされている人達は本当にカッコイイのだろうか。自分がカッコ良くなるには自分の思うカッコイイものを見続けそして自分がカッコイイと思うものをやり続けるしかない。それがダサくても問題ない。みんながカッコイイって言ってるからと同調するのはもっとダサい。作り笑いをしながらカッコイイを誤魔化すよりも、ノーコメントを貫いて誰かにダサいと揶揄されながら自分のカッコイイを出す方が、私の心は健康的なのである。不特定多数の「誰かに読まれる」記事を書くつもりなど毛頭ない。どんなにダサくても、不特定多数の「誰かが読みたい」記事が書ければ、例えそれが一人でも私は本望なのである。

 

アイアン・メイデンめちゃシブ。